私の初の海外旅行は北朝鮮で、以来、今までに5回行っている。
旅先での思い出は語り尽くせないほどあるのだが、今も時々思い出すのは現地の女の子たちと「好きな男子のタイプ」の話題になった時のこと。日本だったら無難に「優しい人」から始まり、「一緒にいて楽しい」とかそんな言葉が出るだろう。が、北朝鮮の女の子は一言、「男は軍隊!」と断言した。「やっぱ軍隊行ってないとね」「話にならないよね」。そううなずき合う女の子たちを見て、「北朝鮮」という国がまた一つ、わかったような、でもちょっと遠くなったような気がしたのだった。
こんなエピソードを持ち出すまでもなく、「男らしさ」と国家のあり方は、いつの時代も密接に絡み合っている。日本の場合、「好きなタイプ」の話で「自衛隊!」と即答する女子に出会ったことはないが、それでも「男らしさ」と軍隊は、切っても切れないものがある。ということが、今回のエッセーの一つの論点。次に問題提起したいことは、以下のようなことだ。
それは今から10年以上前のこと。生きづらさを抱える人々が集まる会合でのことだった。それぞれの「死にたい理由」などを語る場にいたのは十数人。そこで当時50代ぐらいの男性は、長年引きこもっていることを告白した後、幼い頃から父親に虐待を受けてきたことを語った。その時、唐突に出てきたのが「戦争」という言葉だった。
彼の父親は元軍人で、過酷な戦争体験をしているという。父親はしょっちゅう家で暴れ、家族に暴力を振るうのだが、彼は「僕はそんな父の暴力に長年苦しんできたけれど、父が暴れるのは戦争体験によるPTSD(心的外傷後ストレス障害)だと思う」と語ったのだ。
その瞬間、私の中で「歴史の話」だった「戦争」は、いきなり自分たちの「生きづらさ」問題とつながった。その日は、日本社会に暴力が蔓延(まんえん)していることと戦争との関係性や、戦争体験者である祖父世代から虐待を受けた父母世代への虐待の連鎖、なんて話になった。その日のことはずっと心に残っていて、だけど私の中でどこに着地していいのかわからずにひっかかっていた――というのがもう一つの論点。
そうして2015年、戦後70年にして安全保障関連法制をめぐって反対運動が盛り上がる中、「戦争」がにわかにリアルなものとなって迫ってきた。5月には衆院平和安全法制特別委員会で、01年以降にイラクやインド洋に派遣された自衛官のうち、54人が自殺していたことが明らかにされた。
戦争によるPTSD。それは長いこと、アメリカなどリアルタイムで戦争している国の話だった。ピュリツァー賞作家であるデイヴィッド・フィンケルの著書『帰還兵はなぜ自殺するのか』(2015年、亜紀書房)によると、アメリカではアフガニスタン紛争(01年~)・イラク戦争(03年)から生還した兵士200万人のうち、50万人が精神的な傷害を負い、毎年250人超が自殺するのだという。翻って、この国の自衛隊員の自殺と戦争の因果関係は当然、証明されていない。しかし、54人という数字は、私にとっては大きすぎるインパクトを持っていた。
一方で、70年前の戦争によるPTSDの問題は、長いこと放置されてきた。そんな戦後70年の夏、西日本新聞が衝撃的な事実を報じた。太平洋戦争による過酷な戦場体験や軍隊生活の影響で精神障害を患い、70年以上も入院している人がいるのだという。療養中の旧軍人・軍属は九州だけで6人、うち3人が入院中。その中には、98歳の男性もいるということだった(2015年8月11日付、西日本新聞)。
これらの話が、今、私の中でばらばらに存在している。だけど、つながっていることだという予感が強くある。戦争による心の傷を放置してきた日本社会と、この国における暴力。精神の病への強いスティグマ(負のレッテル)。軍隊がある国の男子・女子の生きづらさ。暴力の連鎖と、「メンヘラ」(精神疾患・精神障害や生きづらさを抱える人々)問題。それだけではない。「企業戦士」が求められ、過労死・過労自殺に人々を追いつめる過酷な労働環境がここまで放置されてきたことと「軍隊」的価値観、などなどだ。
こんな私の漠然とした思いをなんとか言葉にしたくて、ある人に話を聞いた。それは1931年の満州事変勃発に始まり、45年に敗戦に終わるまでの「アジア・太平洋戦争」における「戦争神経症」を追う中村江里さん。30代前半の女性にしてこんな「いぶし銀」なテーマを追う研究者である彼女は、いくつかの大学で歴史学やジェンダー論を教えている。
そんな中村さんにまず、戦争神経症とは何なのかを聞いてみた。
「戦争神経症とは、戦時に発生した心因性の神経症の総称です。現代的な視点から見ると、PTSDを含むトラウマ反応として捉えられるものが結構含まれていると思います。症状としては体が震える、手足がまひする、声が出なくなる、などです。当時は治療によって回復させ、前線に戻すことが軍事医療の第一目標でしたが、内地(日本)で治療を受けられた人は全体のごくわずかでした。多くは軍務に適さないため、兵役免除となりました」
当時、戦争神経症の患者は千葉県市川市にあった「国府台陸軍病院」などに入院していたという。が、患者は治療の現場でも偏見にさらされていたそうだ。
「詐病(さびょう)と言って、仮病に近い、いかがわしいものと考えられていたようです。当時の日本の軍隊の中では、勇敢に戦って死ぬということが至上の命題だったので、恐怖が原因で症状を起こしていること自体が『よくないこと』というまなざしがありました。もう一つ、詐病が疑われた背景にあったのは恩給です。軍隊で傷を負ったり病気になったりすると、傷病恩給が貰えるわけです。当時、戦争神経症の人たちは恩給欲しさにそういう症状を作っているんじゃないか、疾患に逃避して兵役を免れているんじゃないかというふうにも見られていました」
中村さんの論文「戦争と男の『ヒステリー』 十五年戦争と日本軍兵士の『男らしさ』」(2015年)には、千葉県千葉市にあった傷痍軍人下総療養所(現・国立病院機構下総精神医療センター)で、戦争神経症患者の治療にあたった男性の回想が紹介されている。以下だ。
「それにしても、戦争神経症にかかつた兵隊の姿というものは、いかにも愚かしく、女々しく、一種異様な不快な印象を、ひとにあたえた。戦争神経症におちいつた兵隊の言動は、軍人として失格した者、という以上に、一人前の人間でなくなつた者の印象をあたえるのである」
ずいぶんな言いようであるが、患者の中には、「第一線を退くこと」に対する異常なほどの「恥」の意識があった。中村さんの論文「日本帝国陸軍と『戦争神経症』」(2013年)には、患者の声が紹介されている。
「私は早く一線へ行つて戦ひたいのですが反対に後方へ後方へと送られることは私を疑つてやはり国賊と考へて内地へ帰すつもりでせう。私は絶対に帰りたくないのです。帰される位なら死にたいのです。私が若し内地へ帰されたら新聞にすぐ出されます。国賊を出したといふので両親も兄弟も土地に居られません。結局皆生きて居られなくなります。一家全滅です。(中略)どうか内還を止め私の潔白なことがわかる迄置いて下さい」
患者の中には内地に戻ることを恥じ、送還途中の船上から入水したり、病院内で首を吊ったり飛び降りたりする者もいたという。これらのことから浮かび上がるのは、「恥」の意識だけでなく、「戦争で心の病気になった」者に対する世間の目の厳しさだ。「国賊」という言葉が、それを表している。中村さんは言う。
「兵役というのが男性の義務で、特にアジア・太平洋戦争では根こそぎ動員みたいな時代になる。ジェンダー史などを研究されている内田雅克さん(東北芸術工科大学教授)が、『大日本帝国の「少年」と「男性性」』(2010年、明石出版)という著書の中で、“男らしさ”とは歴史的・社会的に作られたものであり、その根幹には“ウィークネス・フォビア(weakness phobia)”があると指摘しています。つまり、弱くあるということをすごく嫌う。戦争神経症というのは、当時の理想の“男らしさ”とは真逆の“弱さ”を露呈するわけです」
「男らしさ」と戦争神経症(2)へ続く。
「男らしさ」と戦争神経症(1)
(作家、活動家)
2016/06/02