2017年1月、アメリカに「ドナルド・トランプ大統領」が誕生することになった。
移民やイスラム教徒やマイノリティー、そして女性に対して耳を塞ぎたくなるような差別発言を繰り返してきた人物が、莫大な権力を手にするのである。なぜか彼が口にすると「過激発言」で済まされてしまう差別的言説は、大統領選挙戦中だけでも嫌というほど世界に撒き散らされた。そのことによって、「差別」や「排除」へのハードルは、おそらくとてつもなく低くなってしまった。
一方、トランプ氏ほど露骨でなくとも、日本にも女性へのハラスメントは溢れている。
例えば15年に自死した電通社員・高橋まつりさんのツイッターには、男性上司から「女子力がない」と言われる、といった書き込みがあった。女子力――この言葉について考えていたところ、非常に腑に落ちる記事と出合った(朝日新聞、16年11月13日 高橋純子記者)。
「女子力。女性が自分で使っている分には、ある種の諧謔(かいぎゃく)を含んで自身を鼓舞する言葉となるが、男性に使われると物差しとなり、上司に使われる途方もない抑圧となる」
そうして続く文章は、女子力という言葉に代表されるような「女子の生きづらさ」を的確に言い当てる。
「エントリーしていない試合のリングにいつの間にか上げられ、勝手に期待されたり批判されたりする」
そうなのだ。なぜか女子はいつも、男性に「上から目線」で「評価」され、点数をつけられ、場合によっては序列までつけられる。それ自体の暴力性に、多くの男性は驚くほど鈍感だ。
例えば私の知人の中にも、「エントリーしていない女子を勝手にリングに上げる」男性はいる。一緒に歩いていたり、飲食店だったり、とにかくいつでもどこでも視界に入る女子(若い女性のみ)にいちいち点数をつけるのだ。「今の子可愛い」とかならまだいい。「なんなんだよあの髪型」「靴くらいちゃんとしたの履けよ」「あの服、ないわ~」などなど、小姑のような「ダメ出し」を、すれ違っただけの赤の他人にやってのけるのである。
お前は何様? っていうか、お前こそ、その服どうしたの? そのセンス大丈夫なの? 自分が「ないわ~、0点!」って言われたらどんな気持ちになるの? そう問いつめたいが、そんなことを言うとその手の男は「男の言うことにいちいち目くじらを立て、受け流せないなんて『女子力』が低すぎる」とか言うに決まってるので黙っている。そうして彼は、おそらく未来永劫、学習の機会を失っていくのである。
ある時、数人で一緒に歩いていた彼が「うわっ!」と叫んだ。「なに?」と聞くと、彼は反対側の歩道を歩く一人の女子を指して、言った。
「今の子、すごい可愛いと思ったのに痰(たん)吐いた!」
その痰、こいつに当たればよかったのに。私はとても冷静に思った。
さて、そんなことを書きながらも、私自身のまわりにいる男性を見渡すと、世代を問わずジェンダー意識の高い人が多い。それは私が貧困問題などに関わっているからで、さまざまな社会問題、人権問題に関わる男性がまわりに多いからだ。当然、そういった活動をしている人の意識は一般男性より遥かに高く、嫌な思いをすることはほとんどと言っていいほどない。
しかし、そんなコミュニティーを一歩出ると、世の中はこれほどまでに「変わっていないのか」と愕然とすることが多々ある。
例えば、最近、はらわたが煮えくり返りそうになったことがある。それは友人たちとの集まりでのこと。そこに何度か同席したことのある男性(私と同世代)がいたのだが、彼は「悪い男キャラ」が売りなのか、突然よくわからない「自慢」を始めたのだった。
その内容はと言えば、自分は飽きやすいので、同じものを毎日食べたくない。それと同じで、同じ女性と続けて性行為をするのは嫌である。毎日ハンバーグだと飽きるから今日はカレー、明日はお寿司、といった具合に違う女性と致したいのだ、という「昭和の成金オッサン」みたいなことをおぬかしになったのだった。
それだけだったら、馬鹿だなー、時代遅れだなーで済ませたのかもしれない。しかし、続いて彼が得意げに話したことに、私は目の前が真っ赤になるほどの怒りを覚えた。
それは、数カ月前に私も一度だけ会ったことがある彼の元カノの話。聞きたくもないのに延々と暴力的な性行為の話を続けたかと思うと、その男はトンデモないことを口にした。相手の許可を得ず、避妊を一切していなかったというのだ。
ある日、生理が遅れていると彼女に告げられたその男は、「ふーん、産めば?」とものすごく適当な感じで答え、それからも避妊をせず、不安でどうしようもなくなった彼女が「子どもができたら結婚してくれるんだよね?」と聞けば、ずーっと「さあね~」「どうしよっかな~」とはぐらかし続けていたのだという。
そこには、小さな子どもが小動物をいたぶって遊ぶような残虐性がにじんでいた。ただただ、反応を見て面白がっているのだ。その間、彼女がどれほどの不安と恐怖の中で過ごしたかなどには、まったく想像が及んでいないようだった。
結局、精神的にも肉体的にもいたぶり続けた彼女とは、「連絡が取れなくなった」ということで話は終わった。
「妊娠してなかったみたいでよかった」
男は他人事のようにそう話していたが、彼女は十分に妊娠している可能性がある。まったく頼りにならないどころか、自分の人生を弄ぶだけの男を見限り、連絡を断って一人で中絶したかもしれないのだ。それがどれほどのことか、彼は果たしてわかっているのだろうか? どれほどの罪なのか、自覚しているのだろうか? 残念ながら、答えはノーだろう。話の端々から、ただ単に「俺は駆け引きを楽しんでただけ」といったニュアンスが読み取れた。が、相手にすればたまったものではない。しかも彼女はまだ10代だったのだ。
ちなみに、相手の許可なく避妊をしないことは、悪質なDV(ドメスティックバイオレンス)である。彼は自分で「僕はDV男です! DV大好き!」と公言しているに等しいのだ。
虐待的な関係性しか作れず、あろうことかそれを自慢する男。「女」を見れば点数をつけないと気が済まない男。
このような男性に「あなたのしていること/あなたの考えはおかしい」と言うと、必ず返ってくる言葉がある。
「カタいこと言うなよ」
そう言われると、多くの女子は黙ってしまうのではないだろうか。私が「カタい」から、いちいち細かいことが気になってしまうのではないか。こんなことくらい、笑ってうまくかわせないといけないのではないか。
しかし、今、私は断言したい。
「カタいこと言うなよ」という言葉が発せられる場には、100%の確率でハラスメントや暴力が存在することを。
「カタいこと言うなよ」と彼らが言うのは、それが「悪いこと」だとわかっているからだ。だけど、それくらいの「罪」なんか認めろ、許せよ、だって女だろ? 俺様は男なんだぞ、と言っているのである。甘え腐った生き物もいたものである。
さて、ここまで書いた二人は、どちらも40代前半だ。41歳の私と同世代である。で、1975年生まれの私は、同世代の男性の「二極化」を、嫌というほど目の当たりにしている。
そのまんま「昭和のオッサン」まっしぐらに突き進んでいる男性と、イクメンに象徴されるような男性に、真っ二つに分かれているのだ。おそらく、団塊ジュニア最後のこの世代が分水嶺なのではないだろうか。
そんなことを考えていたところ、非常に興味深い本を読んだ。
それは、私と同じ75年生まれの田中俊之氏が書いた『〈40男〉はなぜ嫌われるか』(2015年、イースト・プレス)。
本書の紹介欄には、以下のような文章がある。
「2015年時点で30代後半から40代前半の男性を、本書では『40男』と呼ぶ。この世代は、『昭和的男らしさ』と『平成的男らしさ』の狭間を生きている。『働いてさえいればいい』と開き直ることも難しいし、若い世代のようにさらりと家事・育児もこなせない、自分の両面性に葛藤し続けてきた男たちである。問題は、若い女性への強い興味に象徴される、そのリアリティーと現実のギャップにある。40男の勘違いは、他人に迷惑をかけるだけではない。そのギャップは、僕ら自身の『生きづらさ』に直結しているのだ」
この本の「ほとんどの男性は何も成し遂げられない」という、身も蓋もない見出しから始まる章で、「男らしさ」についてとても納得する一文を見つけた。引用しよう。
「ところで、男性が自分の『男らしさ』を証明する方法には、達成と逸脱の二種類がある。
この議論は若い世代で考えてみると分かりやすい。例えば、高校生の男子であれば、野球やサッカーで活躍したり、有名大学に合格したりといったことを達成すれば、『男らしさ』を証明できる。
トランプと女性蔑視と40男
(作家、活動家)
2016/12/01