Ⅱ アンリ・ベルクソンの思想――創造性・新しさ・予見不可能性
アンリ・ベルクソン
おそらく覚えている方は少ないと思いますが、この「保守思想入門」の連載第1回目で、私は、アメリカの思想家であるウィリアム・ジェイムズの次のような言葉——「新しい真理とは〔中略〕、最小の動揺と最大の連続性とを与えるようにして旧い意見を新しい事実にめあわせる。一つの理論が真であるかどうかということは、その理論がかかる『最大と最小の問題』をどの程度に解決しえているかに比例して計られる」(『プラグマティズム』、桝田啓三郎訳、岩波文庫)を引きながら、このプラグマティズムの「真理」観は、そのまま平衡を重視する保守思想の「真理」観だと述べておきました。
つまり、自然な生成変化を肯定しつつ、社会に大きな動揺をもたらす恣意的な変革を抑制し(最小の動揺)、できるかぎり過去との連続性(最大の連続性)を保とうとするプラグマティズムの姿勢は、そのまま、過去と未来とのあいだで平衡をとりながら、漸進的な社会変化を肯定し、それを調整しようとする保守思想の姿勢と重なっていると指摘しておいたのです。
ところで、このような「真理」観を持つ哲学者と親交を持ち、論考「ウィリアム・ジェームズのプラグマティズムについて——真理と実在」によって、ジェイムズの思想に心からの敬意を示していたのは、ほかならぬあのベルクソンでした。ベルクソンは、まさにプラグマティストたちの「最小の動揺と最大の連続性」を嗅ぎ分ける力に注目しつつ、そこに、「意識」より手前にある「純粋経験」の意味を探り当てようとするのです。
「本当のところ、ジェームズは神秘的な魂をじかに覗きこんでいたのである。それは私たちが春のある朝、そよ風の優しさを感じ取ろうとして窓辺から身を乗り出したり、あるいはまた海辺で風がどこから吹いてくるかを知ろうとして帆船の行き交いを見つめ、帆のふくらみを観察するのと同じである。宗教的な感激に満たされた魂は、実際に持ち上げられて運ばれるのだ。それらの魂を持ち上げて運ぶ力を、科学の実験の場合と同じように実地に捉えられないことがどうしてあろうか。ジェームズの『プラグマティズム』の起源とインスピレーションの根源は、おそらくここに見いだされる。彼にとって、私たちが認識すべき最重要な真理とは、思考される前に感じられて生きられる真理である。」(「ウィリアム・ジェームズのプラグマティズムについて——真理と実在」『思考と動き』所収、原章二訳、平凡社ライブラリー)
ここで注目すべきなのは、「思考される前に感じられて生きられる真理」という言葉でしょう。つまり、ベルクソンは「最小の動揺と最大の連続性」(真理)は、「思考」によってではなく、飽くまで「魂」によってこそ感じられるものだと考えているのです。
「思考」は世界をモノとして対象化した上で、それを空間的に分割=分析して捉えますが、「魂」は違います。それは世界と交わりながら、それを時間的=有機的なコトとして直観します。そして、この「思考」(空間)ではない「魂」(時間)こそが、「意識」の手前にあって、私たち自身の持続の手応えを可能にしているものだと言うのです。
しかし、これはもちろん、単なるベルクソン個人の主観的な意見ではありません。
ベルクソン自身が度々言及しているように、この思考(空間)と魂(時間)の質的差異は、「アキレスと亀」の寓話(ゼノンのパラドクス)から導かれた議論でした。
たとえば、足の速いアキレスが、足の遅い亀を追いかけます。が、アキレスが亀のいた場所に追いつく頃には、その時間分だけ亀は前に進んでいます。そこでアキレスは再び亀に追いつこうとします。が、追いつくまでの時間分だけ、また亀は前に進んでいるはずです……。こうして、亀のいる地点まで「無限の点」を経なければならないアキレスは、永遠に亀には辿り着くことができない……という、あの「アキレスと亀」の話=パラドクスが成り立つことになるのです。
果たして、このパラドクスを解こうとするところから、ベルクソンは彼自身の生涯を貫く一つの主題を掴んでいました(註1) 。すなわち、この「アキレスと亀」の不条理は、流れ去っていく時間(運動)を、それが辿った空間(静止点)によって思考したことによって現れていたのではないか? もっと言えば、持続的に流れている時間を、静止している空間に分割して捉えようとすること自体が間違いであり、そうである以上、持続的な時間(コト)の感受は、モノを空間的に把握する「知性」ではなく、状況のなかに一挙に飛び込むことのできる「直観」の役割ではないのか、そうベルクソンは考えるのです。
そしてベルクソンは、ここから更に二つの重要な主題を展開していきます。
一つは、目の前の事象を「A」や「B」という部分(数字)に分解して、その関係や因果を問う近代科学の限界についての議論であり、もう一つは、空間(モノ)に還元できない時間(コト)、その分割ができない「純粋持続」のあり方をめぐる議論です。
まず、近代科学の限界についての議論から見ておきましょう。それは次のような反問によって導かれていました。たとえば、親の死に対する「悲しみ」を、友人の死に対する「悲しみ」の「2倍強かった」などと言えるのだろうか? または、「ペンで文字を書く」という一連の行為(一つのユニットとなっている運動)を、「ペン」「手」「文字」「書く」などの部分に分解して、それを行為として正確に再現することはできるのだろうか? あるいは、音楽が奏でる有機的メロディを、「ド」「レ」「ミ」の音に分解した上で再び味わうことはできるのだろうか? もちろん答えは全てNOです。つまり、一つに組み合わされた有機的関係(ユニット)の中に入って味わうしかない「運動」や「時間」(流れ—持続)を、それらの部分に分解し、それを静止した数字(空間—等質な構成要素)に置き直すことは、近似的なかたちでなら可能でも、厳密には不可能だということです。
かくしてベルクソンは、ここから空間(モノ)とは、その性格を異にする時間(コト)についての議論へと入っていきますが、おそらく、このベルクソンの「時間」論こそが、「伝統」について思考しようとする保守思想に大きな刺激を与えたものでした。
もし、時間が、空間的に分割できない一つの流れ(ユニット)なのだとすれば、過去から現在の流れ=歴史もまた一つの有機的な全体として感受されるべきものではないのか。そして、それが一つの分割できない全体である以上、そのなかに私たちがあるとき、それは他との比較を絶した、絶対的で唯一的な経験となるのではないのか。そして、それゆえに、その時間(持続)は、空間的に規定された因果論に還元され切ることはなく、その〈生物の進化=歴史〉のなかに予見不可能な新しさを孕み込むのではないか。
たとえば近代科学は、一つの現象を「A」や「B」や「C」に分解した上で、それを更に「A」→「B」→「C」と並べ、その現象のなかに反復可能な因果法則を見出そうとします。が、そもそも時間が分解を許さない経験なのだとすれば、今言った科学的因果法則は厳密な意味では虚構だと言わなければなりません。しかし、だからこそ因果法則に還元しきれない時間=歴史は予見不可能性を含むのであり、その予見不可能性の中に、絶対的な新しさ(差異)が、言い換えれば、絶対的な創造性(自由)が宿ることになるのです。
この〈自由=創造性〉の概念について、ベルクソンは次のように書いていました。
「数は大変少ないが自由意志を信じている哲学者〔デカルトのことを指している〕でさえ、自由を二つないしそれ以上の数の方針のあいだでの単なる『選択』にしてしまっている。まるでそれらの方針があらかじめ描き出された『可能性』であるかのように。〔中略〕まったく新しい(少なくとも内から見て新しい)行為、どんな仕方によっても、純粋な可能性という形においても実現以前にはあらかじめ存在しないような行為について、彼らは何の考えも持てないらしい。しかし、自由行為とはそのようなものである。自由行為をそのように見るためには、つまり創造性と新しさと予見不可能性をどんな形でもいいから思い浮かべるためには、純粋持続のなかに戻らなければならない。」(「序論(第一部)――真理の成長、真なるものの遡行的運動」前掲書)
ここで決定的に重要なのは、まずベルクソンが、「自由」の問題を、「選択」や「可能性」の問題として捉えていないことです。なぜなら、選択肢をA、B、C……と並べて表象する「選択」の思考も、将来予測をA、B、C……と並べて表象する「可能性」の思考も、その表象は全て空間的で因果的な思考に頼らざるを得ないからです。そのやり方では、真に絶対的で予見不可能な新しさ=創造性(自由)に触れることができません。
では、「自由」はどこにあるのか? それはもちろん「創造性と新しさと予見不可能性」の全てを包含する「純粋持続」のなかです。しかし、だとすれば「自由」は、過去と現在とを分割しない一つの流れ(ユニット)、つまり、意識的な「選択」より手前にあって、その選択自体を後ろから押し出そうとする無意識の流れのなかにしかないということになりはしないでしょうか? そうなのです、だからベルクソンは言うのでしょう、「われわれは自分がいかなる理由によって決断したのかを知りたがるが、われわれは、自分が理由なしに決断したということ、それも、おそらくは一切の理由に反してさえ決断したのだということに気づく。〔中略〕いかなる具体的な理由も欠如しているという事態は、われわれがより深く自由であればあるほど、よりいっそう顕著になる」(『意識に直接与えられたものについての試論』合田正人、平井靖史訳、ちくま学芸文庫)と。
つまり、ベルクソンにおいては、個人的理由(因果)によってではなく、歴史の流れに即して無意識に行動するとき、そこに現れるものこそが全き「自由」なのであり、また、それこそが「創造性と新しさと予見不可能性」を生きることなのです。ベルクソン哲学において、時間の「必然性」を引き受けることと、「自由」を生きることとは矛盾しないどころか、ほぼ同義となるのです。
(註1)
ベルクソン自身、自身の著作の各所で、ゼノンのパラドクスについては繰り返し触れていますが、正確に言えば、ベルクソンに、この空間に還元できない時間の存在論について最初に考えるきっかけを与えたのは、ハーバート・スペンサーの社会哲学だったようです。スペンサーの「進化論哲学で主役をつとめる真の時間を、数学が見落としていることに驚いた」(『思考と動き』、原章二訳、平凡社ライブラリー)ことから自分の思索は始まっていると、その「思想的自伝」である『思考と動き』の「序論(第一部)」でベルクソンは回想しています。
