Ⅰ 「日本語」から考える日本——「あいだ」の倫理学
前々回、そして前回の連載と、ハイデガーとウィトゲンシュタインの思想を問い直しながら、本論が見出したのは、二十世紀の「現代思想」と「保守思想」との関係でした。
そして、そこで重要なキー概念として見出されたのが、ほかならぬ「言語」でした。
ハイデガーは、存在者(モノ=対象物)の手前にある「存在」(コト=対象物との関係)の手応えを拾い上げ、そのリアリティの基盤にあって、私たちの生き方を支えているものとしての「言語」を見出していました。またウィトゲンシュタインは、「論理」より手前にある「慣習」のなかに、「意見の一致」とは異なる「生活形式の一致」を見出し、その中核に「言語」の営み(言語ゲーム)を発見していました。言ってみれば、「言語」とは、私たちの「主体性」(意識・理性)に先立って、私たちの思考を方向づける「エートス」(住み慣れた場所—性格・人柄を作る習慣)であり、エドマンド・バークの言葉を借りれば、予め自己と世界との関係を整え、ものの見方・考え方を枠づけるプレジュディス(prejudice——pre=前もってのjudge=判断)の根幹だということでもあります。
しかし、だとすれば、ハイデガーやウィトゲンシュタインが語る「言語」( language)とは、ソシュール以降の近代言語学が扱うスタティックな「記号体系」とは決定的に異なるものだと言うべきでしょう。それは、むしろ、日本人が語ってきた「ことば」——つまり「ことのは」の意味——に限りなく近いニュアンスをもっているものなのです。
実際、手塚富雄(ゲーテ、ヘルダーリン、ニーチェ、リルケ、ハイデガーなどの翻訳を手掛けたドイツ文学者)の来訪を契機として書かれた『言葉についての対話——日本人と問う人とのあいだの』(高田珠樹訳、平凡社ライブラリー)のなかでハイデガーは、「日本人」とのあいだで、「言語」をめぐって、次のような対話を交わしていました。
問う人 「言語」に当たる日本語の語は何と言いますか。
日本人 (さらにためらったあと)それは「こと・ば」と申します。
問う人 で、これはどういうことを言っているのですか。
日本人 ばとは葉、またとりわけ花びらを指します。桜の花や梅の花を考えてください。
問う人 で、ことは何を言うのでしょう。
日本人 この問いは最も答えにくいものです。〔中略〕ことは同時に常にその都度に魅了するものそれ自体を指しているのですが、この魅了するものは、いつか、またとない瞬間においてのみその優美を湛えて輝き現われてくるのです。
問う人 そうしますと、ことというのは、優美の晴らせる言づてが性起することだ、ということになりましょう。〔中略〕それは、Sprache, γλώσσα,lingua, langue, languageといった形而上学的に理解された様々な名称が私たちに提示するものとは違ったものを名指していますね。ずいぶん以前から、私は、言語の本質に思いをめぐらせる段には、言語(Sprache)という語を用いるのを極力控えています。前掲書
ここで「日本人」に、「ばとは葉、またとりわけ花びらを指します」と答えさせているのは、ハイデガー自身が、「ことば」に、ドイツ語のBlatt(葉、花葉、花弁、花びら)のニュアンスを付与しつつ、〈自然とことばが立ち現れること〉と〈花が開花すること〉とを重ね合わせようとしているからだと言われますが(日本語の語釈としては正確ではありません)、ただ、その解釈が、「ことば」を「コト」(出来事の全体)の「ハ」(端)として解釈してきた日本語学(例えば『岩波古語辞典』)とも矛盾しないことには注意しておいていいでしょう。つまり、ハイデガーにとっての「言語」とは、西洋の近代言語学が描きだす「記号体系」(language)ではなく、むしろ、日本語の「ことば」に近いニュアンスをもったもの、自己と世界との「あいだ」におのずから立ち現れる出来事(コト)を受容しつつ、その一部(端)をみずから表現しようとした際に現れ出る自然のかたちのようなもの——樹木がその枝先に咲かせる花の形のようなもの——だということです。
しかし、それなら、この「ことば」のなかにこそ、西洋人の「自然」と、日本人の「自然」との違いを考える鍵が、言い換えれば、私たちの日本人の「主体性」や「自由」を作り出すための基盤や、私たちの存在を支えている「エートス」(住み慣れた場所—性格・人柄を作る習慣)を考える鍵があると考えることができるのではないでしょうか。
たとえば、ハイデガーの「現存在分析」から多くを学んでいる精神科医の木村敏は、西洋語の一人称代名詞が、「アイ」(英語)、「イッヒ」(独語)、「ジュ」(仏語)などたった一種類だけであるのに対して、日本語の一人称代名詞が、「ぼく」「おれ」「わし」「おいら」「てまえ」「自分」「わたし」「わたくし」「あたし」「うち」など多様であることに注意を促しながら、その差に、西洋人と日本人の感受性の違いを指摘していました。
「一人称代名詞が例えばアイの一語だけであるということは、自分というものが、いついかなる事情においてもいついかなる事情においても、不変の一者としての自我でありつづけるということを意味している。自己が自己であるということは、いわば既定の事実なのであって、いっさいの言語的表現に先立って決定している。思想というものが、言語を(たとえ内的言語の形ではあれ)予想せずには不可能である以上、このことはまた、自己が不変の自己同一的な自己であるということが、いっさいの思考に先立って規定の事実として前提されていることを意味する。」
「日本語の一人称と二人称の代名詞が、不特定の多数であるということは、積極的にはなにを意味しているのであろうか。それは、自分が誰であり、相手が誰であるかということが、けっして最初から一義的に決定しいていない、ということを意味している。〔……〕代名詞である以上、そこにはもちろん完全に具体的な個人は表現されえないけれども、自分が自分に対していかなる一人称代名詞を用いるか、また相手に対していかなる二人称代名詞を用いるかは、そのつどそのつどの全く具体的な対人関係の状況から、おのずから定まってくるのであって、けっしてそれに先立って決定していることではない。」『人と人との間—精神病理学的日本論』ちくま学芸文庫
つまり、西洋人の場合、世界や他者が存在するより前に、自分が存在しているといった「徹底した自己中心主義」(その延長線上にある人間中心主義)が見られるのに対して、日本人の場合、自分がアイデンティファイされるより前に、まず人と人との「あいだ」における関係があり、その関係からおのずと自己が見出されるのだということです。
そこから木村敏は、日本人に特徴的なメランコリー気質(他者志向的罪責感:ご先祖様や世間様に対して「悪いことをした」という罪責感)や、西洋人には見られない「対人恐怖症」や「貰い子妄想」など、日本人特有の精神症状を論じていくことになります。が、いずれにしろ、この「あいだ」から発する日本人気質は、「〔自己に〕囚われることなく物そのものに行く日本精神」(西田幾多郎「日本文化の問題」1940(昭和15)年)や、「天地の心のままにおのずから出て来たものが自由である」という感受性(九鬼周造「日本的性格」1937(昭和12)年)、 あるいは、「おのずから」と「みずから」との「あわい」において立ち上がる「日本人の自然認識、自己認識のあり方」(竹内整一『「おのずから」と「みずから」—日本思想の基層』2004(平成16)年)など、「自然」と共にある日本人の美意識(もののあはれの感性)を導くことになるでしょう。
要するに、人と人との間で「おのずから」生成する関係に即して「みずから」の一歩を踏み出すことに自然な振る舞いを看取し、そこに美や価値を見出してきた日本人の倫理は、それこそ「日本語」の使い方のなかにこそ示されているのだということです。
では、なぜ日本人は、そのように「人と人との間」で繊細な感受性を育ててきたのでしょうか。また、それは、いかなる美点をもち、いかなる弱点をもつものなのでしょうか。以下、保守思想入門の日本編では、数回にわたって私自身の日本人論と共に、日本人の「エートス」と向き合い、それに「保存と修正」を試みて来た日本の保守思想家(京都学派、小林秀雄、福田恆存)についても論じておきたいと思っています。
【註1】
実はこのあたりのことは、むしろ中国文学者・小説家の武田泰淳のエッセイ「滅亡について」などを読んでもらった方が、リアリティがあるのかもしれません。
武田泰淳は「鴎外の理知や、〔谷崎〕潤一郎の構想力や、古くは『平家物語』の琵琶法師の詠嘆」などを取り上げながら、彼らは総じて「亡国の哀歌をきく側にあったようである」、「彼らは滅亡に対してはいまだ処女であった。処女でないにしても、家庭内においての性交だけの経験に守られていたのである」と言う一方で、「中国は、滅亡に対して、はるかに全的経験が深かったようである。中国は数回の離縁、数回の奸淫によって、複雑な成熟した情欲を育くまれた女体のように見える」と言っていました。その点、日本など「第一地域」の人間は、「第二地域」における「世界の持つ数かぎりない滅亡、見わたすかぎりの滅亡、その巨大な時間と空間を忘れている」と言えるのかもしれません。