Ⅰ 「生き方」を問う日本哲学——日本人の「経験」へと帰る道
前回から、いよいよ議論の舞台を日本に移して、日本の「保守思想」を考えるための前提条件を整理しておきました。具体的には、「人と人との間」(木村敏)を調整する繊細な感受性を育ててきた日本人の生態学的条件を、たとえば梅棹忠夫の『文明の生態史観』によって確認し、そこから、丸山眞男や河合隼雄の『古事記』論によって日本人の価値意識を見定め、さらには、山本七平の『「空気」の研究』によって、日本人の美点と欠点とを纏める作業へと入ったのでした。その上で、「ここではないどこか」(西欧近代)から、日本の欠点を批判するのではなく、むしろ、「いま、ここ」において、その調和を導こうとする思想の必要性を、つまり、日本人の「生き方」に対する自覚によって、その「保存と修正」を試みる日本の保守思想の必要性を指摘しておいたのでした。
しかし、それなら、社会的な一般通念を疑い、その前提にある「生」を思考し、それを徹底的に言語化しようとする「哲学」の営みを無視するわけにはいきません。
とはいえ、「哲学」という言葉が、明治の文明開化=日本の西欧近代化の文脈で、ギリシャ語の philosophia(sophia=知をphilein=愛する)から西周が訳出して作り出したバタ臭い翻訳語であることも事実です。が、だからこそ日本哲学は、ときに西洋的教養と日本的現実との間で引き裂かれ、あるいは、西洋的概念によって日本的感性を言語化するというアクロバティックな試みを強いられながら、その葛藤を通じて、西洋と日本との「あいだ」を埋め合わせるアクチュアルな試みにもなり得たのではなかったでしょうか。
第二次世界大戦前、ドイツから日本の東北大学に亡命してきたユダヤ人哲学者のカール・レーヴィット(ハイデガーの弟子)は、「〔日本の知識人は〕二階建ての家に住んでいるようなもので、階下では日本的に考えたり感じたりするし、二階にはプラトンからハイデガーに至るまでのヨーロッパの学問が紐に通したように並べてある。そして、ヨーロッパ人の教師は、これで二階と階下を往き来する梯子はどこにあるのだろうかと、疑問に思う」(『ヨーロッパのニヒリズム』 柴田治三郎訳、筑摩書房、〔 〕内引用者補足、以下同)と書いていましたが、もし、日本の哲学に意味があるのだとしたら、まさにこの二階(西欧)と一階(日本)とを往き来する「梯子」を見出し、それを言語化することだったと言っていいでしょう。あるいは、『代表的日本人』の内村鑑三の言葉を借りれば、西欧近代という「接木」に栄養を送るために、日本の大地に根を張る「砧木(だいぎ)の幹」に眼を向け、両者の接点を言葉の力で造形してみせること、それこそが日本哲学の使命だったのではないかということです。

実際、西欧哲学についての出来合いの解釈や物真似から脱して、初めて日本語で哲学することの意味を示した西田幾多郎の言葉、あるいは、足掛け八年にも及ぶドイツ・フランス留学を経て、なお「いき」や「運命」という日本的主題を手放さなかった九鬼周造の言葉は、彼らの主題が、いかに彼ら自身の「生き方」と繋がっていたのかを示しています。
たとえば、西田幾多郎と九鬼周造は「哲学」について次のように語っていました。
「哲学は単なる理論的要求から起るのではなく、行為的自己が自己自身を見る所から始まるのである、内的生命の自覚なくして哲学といふべきものはない、そこに哲学の独自の立場と知識内容とがあるのである。かゝる意味に於て私は人生問題といふものが哲学の問題の一つではなく、寧ろ哲学そのものの問題であるとすら思ふのである。行為的自己の悩、そこに哲学の真の動機があるのである。」西田幾多郎「無の自覚的限定」『西田幾多郎全集 第五巻』所収、岩波書店
「生きた哲学は現実を理解し得るものでなくてはならぬ。我々は『いき』という現象のあることを知っている。しからばこの現象はいかなる構造をもっているか。『いき』とは畢竟わが民族に独自な『生き』かたの一つではあるまいか。現実をありのままに把握することが、また、味得さるべき体験を論理的に言表することが、この書の追う課題である。」九鬼周造『「いき」の構造』「序」岩波文庫
「私はこの問題にはかなり前から関心を有っていたのであるが、思索をこの一点に集注することは事情が許さなかった。しかしこの問題は実存の中核に触れている問題であって、いつかは何らかの究竟(くきょう)的な形を取らなければ、私を休息させないものである。」九鬼周造『偶然性の問題』「序」岩波文庫
西田幾多郎は「哲学」を、「自己が真に生きんとする」ための思索であると同時に、だから「人生問題」そのものへの取り組みなのだと言います。また、九鬼周造は「哲学」を、「わが民族に独自な『生き』かた」の探求であると同時に、だから「実存の中核に触れている問題」なのだと言います。西田幾多郎と九鬼周造、その主題も、文体も、性格も全く違うように見える二人の哲学者を動かしていたものが、しかし、〝私たちは、いかに生きるべきなのか〟という同じ問いであったことは改めて強調されていいでしょう。
その点、日本哲学は、認識論に傾く西欧哲学とは違って、「生き方」を問う倫理学であると同時に人生論であり、また「文学」でさえあったと言うことができます。
一例を挙げれば、親鸞とその弟子唯円との関係を描いた戯曲『出家とその弟子』1917(大正6)年で知られる倉田百三は、第一高等学校在学中の1911(明治44)年、西田幾多郎『善の研究』を手にしたときの衝撃を次のように回想していました。
「ある日、私はあてなきさまよいの帰りを本屋に寄って、青黒い表紙の書物を一冊買って来た。その著者の名は私には全く未知であったけれど、その著書の名は妙に私を惹きつける力があった。
それは『善の研究』であった。私は何心なくその序文を読みはじめた。しばらくして私の瞳は活字の上に釘付けにされた。
見よ!
個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである。個人的区別よりも経験が根本的であるという考から独我論を脱することが出来た。
とありありと鮮かに活字に書いてあるではないか。独我論を脱することが出来た⁈ この数文字が私の網膜に焦げ付くほどに強く映った。
私は心臓の鼓動が止まるかと思った。私は喜こびでもない悲しみでもない一種の静的な緊張に胸が一ぱいになって、それから先きがどうしても読めなかった。私は書物を閉じて机の前に凝(じっ)と座っていた。涙がひとりでに頬を伝った。」倉田百三『愛と認識との出発』岩波文庫
倉田百三の言葉は、西田幾多郎の『善の研究』が、まさしく単なる認識論としてではなく、一つの人生論として、一種の「文学」として読まれていたことをよく示しています。
倉田が『善の研究』に出会った明治44(1911)年と言えば、石川啄木が「時代閉塞の現状」を書いた翌年であり、近代日本が日露戦争後の目標喪失に見舞われていたまさにそのような時代でした。近代化は果たしたものの、その急激な西欧化、個人化、資本主義化によって、日本人が日本人の「生き方」を見失いかけていた時代、要するに、「煩悶」の時代だったのです——その頃流行った文学が、島崎藤村『破戒』(1906年)、田山花袋『蒲団』(1907年)、正宗白鳥『何処へ』(1908年)などの暗い自然主義文学であり、また、森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』(1909年)、夏目漱石の『門』(1911年)などの内省的、宗教的文学だったことは偶然ではありません——。
では、そんな「煩悶」の時代にあって、西田幾多郎が見出した「経験」とはどのようなものだったのでしょうか。また、後に九鬼周造が「実存の中核に触れている問題」と書いた、その問題とは一体何だったのでしょうか。紙幅に限りもありますが、できるだけ簡潔に、以下、私が考える日本哲学の核心部分をスケッチしておきたいと思います。