いや、そもそも「自然」の一部として生まれ落ちた人間において、その営みを無理矢理、「自然」(手付かずの野生)と「作為」(人工的で虚構的な制度)とに分けなければ納得しないという態度の方が、最終的には不自然なものだと言うべきでしょう。しかし、それなら、人為的な制度を「自然」のリズムに一致させようと努力する保守思想とは、要するに、「不調和」となっている人間と環境との関係を再び「調和」へと――他者と共に共有している空間の調和、そして、先祖や子孫たちと共有している時間の調和へと――導こうとする有機体の努力そのものだと言った方が適切かもしれません。
そして、その努力を促している力もまた、私たちの意識を超えて私たちに贈り届けられている内なる「自然」の力なのだとすれば、その「自然」を信じるほかに、私たちが「調和」を受けとる術はないと言うべきなのです。自分をも含めた「自然」に対する畏怖と感謝、そして、それに従った適切な自己調整、それが保守思想の倫理だということになります。
さて、ここまでエドマンド・バークの言葉に沿って、保守思想の基本的枠組みを描いてきましたが、実は、その「先入観」(prejudice /pre=前もってのjudge=判断)の思想にしても、「時効」(prescription/pre=予めのscription=規定)の思想にしても、「理性の限界」や「漸進主義」、あるいは「自然の信仰」にしても、それらの考え方は、かたちを変えて、再び二十世紀の現代思想のなかに蘇ってくることになります。理性主義と進歩主義と自由主義とが大手を振った十九世紀、「保守思想」は単なる「保守反動」として退けられることが多かったのですが――今でも、その名残はありますが――、しかし、その自由と進歩のどん詰まりで、私たちは、再び私たちの「自然」につき当たることになるのです。
が、すでに紙幅も尽きてしまいました。次回以降、論は大きく転回し、十八世紀末のバークによって唱えられた〈近代への疑惑〉が、十九世紀を通って、二十世紀の現代思想――ベルクソンやハイデガーやウィトゲンシュタインなど――によって煮詰められ、深化していく過程を見届けておきたいと思います。もちろん、彼らが、自覚的な保守思想家だったと言う気はありません。が、そこで語られた主題が、エドマンド・バークの言葉と矛盾するものでなかったこともまた事実なのです。そして、そのことが確認されたとき、ようやく「保守思想」は、単なる保守反動の言説――反サヨクの言説としてではなく、人間の「自然」に対する一つの自立的な思想=生き方として論じ直すこともできるようになるでしょう。
その上で本論は、改めて「日本の伝統」についても議論したいと考えています。
第5回 エドマンド・バークの思想
(文芸批評家)
2024/09/09