要するに、バークは、現実否定の政治理念、つまり、過去の軛(くびき)から自由になった「個人」とその「権利」などという思弁的観念から政治を導くのではなく、その反対に、いま生きられている現実と、その関係を引き受けるところから政治へと向かっていったということです。何が取り換え不可能な基礎(土台と柱)で、何がリフォーム可能な部分(外壁や屋根)なのかを見定め、その基礎と部分との絶えざる調整によって、イギリス国家における「最小の動揺と最大の連続性」(ウィリアム・ジェイムズ)を実現すること、その実践に身を捧げることになるのです。
その意味で言えば、自由で平等な個々人の契約によって社会を立ち上げようという社会契約論的思考はバークとは無縁なものでした。もし、バークが「契約」という言葉を口にすることがあっても、それは次のような〝時間〟を孕(はら)んだ概念としてでした。
「たしかに社会はある種の契約によって生まれます。契約も、たんにおりおりの利益を目的としたごく些細な契約なら、好きに解約することもできるでしょう。しかしごく一時的な利益のために締結した契約で国家を作り出したり、当事者の気の向くままに国家を解消したりできると考えるべきではないのです。〔中略〕というのは国家は、ただひととき存在して滅んでいく〔人間という〕粗野な動物的存在だけに役立つ協力協定で作られるものではないからです。国家はすべての学問についての協力協定によって、すべての技芸についての協力協定によって、すべての徳とすべての完璧さについての協力協定によって作られるのです。こうした協力協定の目的は何世代つづいても実現できないほどのものなので、生きている人びとだけが結ぶ協力協定ではすみません。それは生きている人びととすでに死んだ人びととの間で、またこれから生まれてくる人びととの間で結ばれる協力協定なのです。」『フランス革命についての省察』二木麻里訳、光文社古典新訳文庫、〔 〕内引用者、以下同じ
この一節は、二十世紀初頭の保守思想家、G・K・チェスタトンによる「死者の民主主義」(『正統とは何か』)という言葉を思い出させますが、いずれにしろここで重要なのは、バークが、国家についての「契約」を、個々人の利益――また、それを打算する理性――に基づいたものとしてではなく、その国の学問、技芸、道徳などの全ての営みにおいて引き受けられてきた、そして、これからもまた引き受けられていくであろうやり方=作法のようなものとして捉えている点です。それは正確に言えば、「契約」などという個人的で意識的な約束ではなく、人々が暗黙の裡に協力して作り上げてきた信頼関係、あるいは、過去から現在、そして未来へと語り継いでいくその国の「生き方」についての共通理解のようなものとして把握されています。つまり、国家の正統性とは、個々人の「契約」によってではなく、〈長い歴史のなかで作り上げられてきた人々の協力協定=伝統〉によってこそ支持されるのだということです。
ここには、「ある土地に囲いをして『これはおれのものだ』と宣言することを思いつき、それをそのまま信ずるほどおめでたい人々を見つけた最初の者が、政治社会(国家)の真の創立者であった」(ルソー『不平等起源論』)といったような、文化=国家に対する軽蔑やルサンチマンはありません。それとは反対に、時と処と立場によって変化する幾多の協力協定を積み重ね、それによってかろうじて成り立ってきた〝私たちという共同性〟に対する驚き、それによってかろうじて成り立ってきた「国家」というものの希少性に対する自覚、そして、そんな歴史からの贈り物=伝統(tradition/tra=超えてdonation=与える)を守ろうとする責任感といったものを読みとることができます。
Ⅱ 権利宣言と保守思想――「保存と修正」の原則
では、バークにとって、最も重要かつ取り換え不可能な「伝統」とは一体何だったのでしょうか? そして、なぜバークは、その「伝統」を守ろうとしたのでしょうか?
『フランス革命についての省察』のなかで、まず、何よりバークが「強い偏愛」を示したのは、マグナ=カルタ(大憲章/1215年)から続くイギリスのコモンローの伝統(慣習法の支配)でした。が、なかでも重要視していたのは、コモンローの伝統を引き継ぎながら、その精髄を示した「権利宣言」(1689年)の精神だったと言っていいでしょう。
主に「権利宣言」の精神を成り立たせているのは、世俗的打算を超えて受け継がれてきた〈王位継承のルール〉と、世俗的打算への顧慮を伴った〈臣民の権利〉の二つの条文です。そして、その二つを同時に定めようとした「権利宣言」の精神のなかにこそ、バークは、血みどろの宗教戦争の果てに、チャールズ一世の首を刎ねてしまったピューリタン革命の精神とも、歯止めなき「自由」によって暴走し、ルイ十六世を断頭台へと送ってしまったフランス革命の精神とも違う、イギリス名誉革命独特の均衡を読みとっていたのでした。
「旧ユダヤ人街の紳士たち〔フランス革命を称賛し、それをモデルにイギリスの改革を唱えるリチャード・プライス博士など〕は、一六八八年の名誉革命について自分たちがおこなっているすべての議論のなかで、その四十年ほど前にイングランドで起こったピューリタン革命と、最近のフランス革命を心のなかでくっきり思い浮かべているために、この三つの革命をつねに混同しつづけています。かれらの混同したものを、わたしたちは区別しなければなりません。かれらの誤った幻想を否定しながら、わたしたちは尊敬してやまない名誉革命の実際の法規を思い出して、その真の原理に目を開かなければなりません。」(同前)
名誉革命(1688年)は、イギリス国民に、カトリックを強引に押しつけようとしたジェイズム二世に対して、英国国教会の立場に立つ議会の抵抗によって成った革命でした。
様々な説得・政治工作にもかかわらず、ジェイムズ二世の譲歩を引き出せなかった議会は(トーリーとホイッグの両党は)、ジェイムズ二世の長女メアリの夫=オランダ総督オレンジ公ウィリアムに書簡を送って、ジェイムズ二世打倒の協力を請願します。これに応えたウィリアムは兵を率いてイギリスに上陸、議会と力を合わせてジェイムズ二世を追放することに成功するのです。その後、議会は「権利宣言」を上奏し、ウィリアムとメアリがこれを承認、二人は共同で王位につくことになるのですが、後の人々は、大規模な流血の惨事を見ずに成ったこの革命を指して、「名誉革命」と呼ぶことになるのでした。
ではバークは、「権利宣言」のどこに、可能性を読み取っていたのでしょうか?