それは、宣言文が、〈世襲による王位継承〉と、〈王権の制限=人民の権利と自由〉とを結び付け、それらを分割することのできないイギリスの伝統として宣言していた点でした。
個人を超えて個人を導くイギリスの「自然」、そして、その象徴である「王冠」を中心(取り換え不可能な基盤)としながら、それによって開かれた場所に、王権と人民との折り合いと調整の可能性(リフォーム可能な部分)を見出すこと、この「保存と修正」のバランス感覚こそ、バークの「権利宣言」に対する信頼をかたちづくっていました。世俗的打算を超えて受け継がれる〈王位継承のルール〉によって、イギリス国家の揺るがぬ伝統(国家のアイデンティティ)を保ちながら、〈臣民の権利〉によって、その世俗的な試行錯誤をも守ること、これが、バークの見出した「権利宣言」の「真の原理」だったのです。
そして、このイギリスにおける「保存と修正」の原則にこそ、これまで生きられてきた〈宗教―王位〉を暴力的に切断し、その空位に、単なる〈理性―国家〉の観念を流し込もうとしたフランス革命と、逆に、伝統的な〈宗教―王位〉によって、目の前の〈理性―国家〉を包み込もうとしたイギリス名誉革命との、決定的な違いがあったのです。
バークは、この「権利宣言」によって示された「保存と修正」の原則を、改めて「先入観」と「理性」との関係として解釈し直し、それを次のように整理していました。序章(連載第2回目)でも確認した言葉ですが、ここにもう一度引いておきます。
「わたしはこの啓蒙の時代に、あえてつぎのように告白するほど不遜な人間です。つまりわたしたちは一般に、教育を度外視した感情で動く人間で、自分たちの古くからの先入観をまるごと投げ捨てるどころか、それを心からたいせつにするのです。さらに恥ずかしいことに、まさに先入観であるからこそたいせつにします。それもその先入観が長つづきしたものであればあるほど、世に広まったものであればあるほど、いとおしむのです。〔中略〕
わたしの国の思想家の多くはこうした一般的な先入観を否定せず、先入観のなかに生きている潜在的な叡智を掘り出すために知恵をめぐらせます。そして探していたものを見つけても(失敗することはまずないのですが)、先入観の衣を捨ててそのなかの裸の理性だけを取り出したりはしません。内側に理性をふくませながら先入観を維持するほうが望ましいと考えるのです。というのも理性をふくむ先入観は理性に行動を起こさせる動機になりますし、そこにふくまれている愛情によって永続するものになるからです。
緊急のときにも先入観はすぐに動き出します。先入観は精神を、叡智と徳のしっかりした道へと向かわせるのです。そして決断すべき瞬間に人をためらわせたり、疑わせたり、困惑させたりしません。決断しないままにもさせません。先入観があることでその人の徳は習慣になり、その人の義務は本人にとって自然な本性の一部となるのです。」(同前)
ここで言われている「先入観」は、日本語では「偏見」と訳されることもありますが、文脈に沿ってより正確に解釈するなら、英語のprejudice(プレジュディス)、つまり、pre=前もってのjudge=判断を担っている〝力〟のことを指していると考えるべきでしょう。
それは、これまで身体的に馴染まれ、組み合ってきたものとの関係からくる直観、言い換えれば、頭で考えるよりも前に、その関係が自分にとって喜ばしいものなのか、それとも悲しいものなのかを判断する経験的=身体的直観のことを指しています。既存の調和している関係なら――たとえば愛情深い親子関係や友人関係なら――、私たちはそれを考えるよりも前に善きものとして守ろうとするでしょう。が、その反対に、これまで不調和を引き起こしてきた(いる)関係なら――たとえば、いじめっ子や、暴力的な人間との関係なら――、私たちはそれを考えるよりも前に悪いものとして距離を保とうとするでしょう。それがバークの言う、緊急のときにも迷わずにすぐに動き出す「先入観」の力です。
そして、ここで決定的に重要なのが、「長つづきしたものであればあるほど、世に広まったものであればあるほど」、私たちはその「先入観」を愛おしむことになるだろうというバークの言葉、つまり「時効」(prescription/pre=予めのscription=規定)の概念です。
長続きした「先入観」とは、言い換えれば、長く「自然」の風雪に耐え、それでも残ってきた善と悪の認識のことです。そんな「時効」によって成り立っている価値観のなかには、私たちが自分の頭で考えることのできる時間(五年から十年程度の時間的スパン)を遥かに越えた喜びと悲しみの歴史が、言い換えれば、四、五百年単位で形成されてきた民族の記憶が溶かし込まれていると考えていいでしょう。そこには、私たちの任意の視点や有限な理性(計算)によっては測り知ることのできない、数限りない成功と失敗の経験が含まれているのです。つまり、それが長続きしたものであればあるほど、今、目の前に現れている〈先入観=善と悪の価値規範〉が示しているのは、無数の差異や矛盾に晒されてもなお揺るがなかった民族の「生き方」、個人の思い付きやルサンチマン、あるいは、イデオロギーや思い込みなどによって改変されることのなかった「叡智」だと言うことができるのです。
しかし、ここで注意しておきたいのは、だからといってバークが、単に「理性」を否定して、「先入観」を盲信すればいいなどとは一言も言っていないことです。過去の「先入観」のなかには、たしかに現代の必要と調和しなくなった迷信や、修正すべき悪癖が含まれていることもあるでしょう。いや、だからこそバークは、「先入観のなかに生きている潜在的な叡智を掘り出すために知恵をめぐらせ」よと言うのです。飽くまで重要なのは、単なる記号的――「英国王室」や「ウェストミンスター寺院」、あるいは日本的文脈で言えば「天皇」や「靖国」などの〝記号〟――なのではなくて、それらの記号が象徴している民族の記憶、つまり、われわれの内において働いている〈潜在的な叡智=歴史的平衡感覚〉なのです。
そして、そんな私たちの〈潜在的叡智=歴史的平衡感覚〉を探り出し、それによって目の前の記号を解釈し直し、伝統に命を吹き込むためには、やはり、調和と不調和との距離を測り、それを反省することのできる「理性」が必要でしょう。「最小の動揺と最大の連続性」がどこにあるのかを直観し、それを調整する手段を考え、そのための道具や仕掛けを作り出すこと、つまり、「裸の理性」を「先入観」の衣で包み込み、それによって「保存と修正」を為していくこと、ここにエドマンド・バークの保守的態度が、言い換えれば、保守思想の原型が見出されることになります。
Ⅲ エドマンド・バークの倫理――「漸進主義」と「自然の信仰」
それでも、バークが擁護しているものが、飽くまで「理性をふくむ先入観」であって、〈先入観を排した理性〉ではないことについては、再び注意しておく必要があります。