実際、バークも言うように〈先入観なき理性〉だけでは――つまり、〈反省と計算〉だけでは、私たちは永遠に何も決断できないのみならず、行動にさえ踏み出すことができないのです。反省すべき過去は無限であり、計算すべき未来も無限である以上、決断しなくてはならないときにためらい、疑ってはならないところで疑い、困惑してはならないところで困惑してしまうのは、「先入観」ではなく、常に「理性」の方なのです。しかし、だからこそ私たちは、反省を切断し、計算をなげうつことのできる手応えを求めているのではなかったでしょうか。不十分な知識を不十分なままに信頼し、私たちの決断を促すことのできるものを把握すること、それこそが、バークの語る〈先入観=伝統の力〉の自覚でした。
しかし、それは逆に言えば、〈先入観=伝統の力〉を排して、〈理性=反省と計算〉だけで行動しようとすると、そこには、必ず恣意的な暴力が入り込んでしまうことを意味しています。有限な「理性」が、自分一人の手で全体を調整しようとすれば、そこに現れるのは必ず、その人の「理性」を中心とした主観的でエゴイスティックな全体性――全体性の仮面をかぶったナルシスティックな妄想体系(偽の全体性)――であるよりほかはありません。
事実、十八世紀末のフランス革命も、二十世紀の共産革命も、それらの「革命」が最終的に行きついたのは、「自由と理性の女神」の無理矢理の虚構(エベール考案)であり、「最高存在の祭典」(ロベスピエール考案)であり、さらに言えば、特定の個人(書記長や党首)を神のように崇め奉る独裁体制(ソ連、中国共産党、北朝鮮など)の建設だったのです。
したがって、だからこそ、「理性による革命」ではなく、「自然な変化」を受け入れる保守思想において重要なのは、社会秩序の「根幹」と「枝葉」とを見分ける成熟した眼であり、理性の可謬性に対する適切な恐れであり、変革の結果に対する慎重な配慮だったのです。
「名誉革命の時代もいまも、わたしたちは自分が所有するすべてのものを先祖からの遺産としたいと願ってきました。ですから遺産の幹や親株のうえに、原木の自然な性質とあわない異質な接ぎ木などしないように注意をはらってきたのです。」
「わたしは変更を加えることをまったく否定するわけではありません。ただ変更するなら、そのものを保存するためになされるべきなのです。
大きな苦情の種があれば、是正するために対策が必要になるでしょう。しかしそのときでも先祖の実例にみならうべきでしょう。変更を加える場合、わたしなら建物を修復するような仕方でおこなうでしょう。わたしたちの祖先は断固とした行動をとるときも、賢明な注意深さ、慎重な配慮、体質的というより道徳的な臆病さを守ることを指導原理にしてきました。わたしの国の祖先は、フランスの紳士たちがおおいに恩恵をこうむっていると誇らしげに語っている啓蒙の光に照らされていなかったので、人間とは無知で誤りやすい生き物だという印象をもって行動したのです。人間をこれほど誤りやすい存在に造った神は、かれらがこうした人間の自然な本性に注意深く行動したことを祝福したのです。」(同前)
ここから、保守思想における「漸進主義」が生まれてくることは容易に想像がつくでしょう。ただ、ここでの「漸進主義」は、「急進主義」と比較したり、その比較によって選択したりする概念ではありません。というのも、この「漸進主義」によって示されているのは、誰一人として〈先祖からの遺産=歴史〉の外には立てないという認識だからです。
だとすれば、社会秩序の「変更」は、その有機体の内部から部分的に試みていくしかないでしょう。それを超えて全体的な変革を導こうとすれば、そこには必ず何かしらの無理や、歪みや、暴力が伴うことになります。だからこそ「変更」は、社会を上から見下ろしたイデオロギー的言説(コミュニズムやリベラリズムなどの〝イズム〟)や、あるいは、外国を手本とした指導的言説(鹿鳴館主義やグローバリズム)によってではなく、自分たちの歴史を導いてきた過去と、状況によって変化する社会的必要との関係、つまり、「原木の自然な性質」と、それと馴染む「接ぎ木」との関係によって議論されるべきなのです。
それなら、保守思想の核心にあるものは、その組み合わせを可能にしている「自然」への信頼、言い換えれば、先祖と自分と子孫とを結びつけ、それらを一つの有機体=国家として纏め上げているところの「自然」への信仰だと言うことになります。
「この永遠の身体〔自然の秩序のなかに与えられている国家の身体〕のなかでは巨大な叡智のはたらきによって、人類という種の壮大で神秘的な結合体がかたちづくられ、その全体が、同時に老年であることも、中年であることも、青年であることもなく、普遍の恒常性をそなえながら、衰退や没落、恢復と進歩という豊かな流れをたどって動いていくのです。わたしたちはこうして自然の手法を国家の行動のうちに維持することで、改善をおこないながらもそこに新奇さだけが満ちるということは決してなく、また維持することが退化するだけに終わってしまうこともありません。
このような方法と原理にもとづき父祖にならい歩むことによって、わたしたちは古さを愛玩するような人たちの迷信とは違う、哲学的なアナロジーの精神に導かれているのです。この世襲の原理を選びとることで、わたしたちはみずからの政治的な枠組みに血のつながりをあたえたといえるでしょう。憲法を最愛の家族の絆として結びつけ、国の基本の法律を家族愛の懐に抱き入れて、国家と家庭と墓地〔先祖〕と祭壇〔宗教〕を不可分なものとして維持しつつ、それらすべてが結合されて照らしあい、博愛のぬくもりで慈しまれるようにしてきたのです。」(同前)
ここに、「自然」に即して制度を作為しようとする態度、つまり、「国家」の内に「自然」のリズムを導き入れようとするエドマンド・バークの態度が導かれることになります。