話し合いは時間切れになり、夜に改めて、今度は市内観光に出かけてしまっていたチベット代表も交えて結論を出すこととなった。
選手登録については構造的な問題が元々あった。CONIFAに参加登録するのは、チベット代表やタミール・イーラム(スリランカを中心に、各国に住むタミール人のチーム)など、政治的な問題を抱えているチームが多い。それ故に開催国のビザが発給されるかどうかが不確定で、登録期限を守る、守れる協会自体が少ないのだ。指定された期日を守ったのは、在日コリアンのチームであるUKJ(United Koreans in Japan)を含む数チームしかなかったが、期限が守れなくとも不可抗力として大目に見られていた。
夜半に行われた再会議では、多数決の結果、バラワ対エラン・バニンは有効試合とされた。ホストチームへの忖度があったかもしれないが、試合開始のホイッスルを吹いた段階でCONIFA側の責任となり、それについては事務局からの謝罪がなされた。
エラン・バニンはこの採決を不服として帰国してしまった。いずれにしても登録期限に関してはビザの問題を含めて今後の課題となった。
政治的な圧力から無縁ではいられない
また、選手や協会に対するセキュリティの問題も持ち上がってきた。アルジェリアの少数民族、カビリアは今回、代表チームをロンドンへ送ろうとしたが、出場を聞きつけたアルジェリア警察による挑発や弾圧が行われ、加えて政府が選手数人に対して出国を許可しなかったこともあり、ベストメンバーをそろえることができなかった。在イギリスのカビリア人を集めての急造チームでは良い結果を望むべくもなかった。
大会終了後も大きな波紋が起こった。優勝したカルパタリアの選手がウクライナサッカー協会の怒りを買って、同協会からの登録を外されたのである。同時期にはカルパタリアサッカー協会への会計査察も入ったというので、これは明らかにウクライナ政府による嫌がらせであろう。
これらはCONIFAの課題というよりも各国が抱える内政問題によって生じる障害であるが、CONIFAが常に政治に左右されない運営をテーマに掲げている以上、無視していくわけにはいかない。
世界へのショーウインドウとしてのワールドフットボールカップ
もちろん課題ばかりではなく、大きな収穫もあった。
大会を通じて、新しいキャリアにつなげた者も少なくない。
在日コリアン代表であるUKJの背番号7、MFのリ・トンジュンは、異色の経歴を持っていた。東京朝鮮高校から朝鮮大学校へ進んだが、海外でのプレーを希望して3年で中退。自ら代理人を探して、20歳のときにオーストラリアへ単身飛んだのである。シドニーで3部リーグのワンダラーズFCと契約を交わし、そこで2シーズンを過ごすと、次はヨーロッパを目指す。その間に日本人選手との情報交換で、東欧を経て西ヨーロッパのクラブへ行くという潮流が整いつつあることを知る。
ポーランドのシュチェチンでハーフシーズン、続いてはクロアチア西部の町、オパティヤのクラブでキャリアを重ねる。3部リーグではあったが、クロアチアはテクニックを重視する国柄で、トンジュンのプレースタイルにフィットしていた。シーズンの折り返し時点でリーグの首位を確保するという、チームの躍進に大きく貢献した。アドリア海沿岸の風光明媚なオパティヤは暮らす上でも気に入っていたが、ビザの問題があり、契約満了で退団。
今年1月に日本に戻った際、元Jリーガーで北朝鮮代表でも活躍していた安英学(アン・ヨンハ)から、UKJの一員としてワールドフットボールカップに出場しないかという連絡が入った。安はUKJの監督兼選手として活動していたが、もうひとつ、いわゆるジェネラルマネージャーの役目も負って選手の招集を行っていた。
「正直、もうサッカーもやりきったかなという思いもあったんですが、これでまた火がつきましたね。僕らにとってはレジェンドの英学ヒョンニム(韓国語における目上の男性への敬称)とプレーできるなんて、思ってもないことだったし、在日代表って名誉なことじゃないですか」とトンジュンは語った。海外を一人で渡り歩いて研さんを積むのもサッカー選手の目指すところだろうが、共通した属性の仲間とチームを組んで戦うのもサッカー選手の喜びである。
ワールドフットボールカップで、豊富な経験はそのプレーに如実に出た。西アルメニア、カビリア、パンジャブ(インドとパキスタンにまたがる地域)、とグループリーグで対戦した大柄な選手を相手にトンジュンは気おくれすることなく、間合いに飛び込んでボールに絡んだ。同じく中盤のムン・スヒョンとの連動も機能して、互いに補完しあって攻守を切り替えた。UKJのグループリーグでの結果が、対西アルメニア(0対0)、対カビリア(0対0)、対パンジャブ(1対1)と堅守を誇ったのもこの中盤にアンカーの安英学、最終ラインを統率したソン・ミンチョル、GKのキム・ヨンギのスキルの高さに負うところが大きかった。
トンジュンは出場にあたってひとつの目標を掲げていた。「国際大会ですから、注目されればまた海外でのプレーにつながると思ったんですよ」
意志は届いた。大会全試合を通じた評価を受けて、アルメニアのクラブ、アララト・エレバンからのオファーが寄せられたのだ。
「宿舎のそばのカフェでコーヒーを飲んでいたら、初戦の西アルメニアの選手たちと仲良くなって、『おおっ、UKJの7番良かったじゃないか』と言ってくれて、実は移籍先を探していると伝えたら」、そこからは、話が一気に進んだ。
「実際にやってみて、アルメニア人のサッカーは戦術的だし、技術も重視されるので、自分にも合うかなと思うんです。一時はもうサッカーはいいかと考えていましたけど、出場して良かったです。これで後輩のためにも道を作れたかなと思います」
結果的にこの移籍は、トンジュンがアルメニアに渡った後にチームの監督が交代するという不運に見舞われて成就しなかったが、CONIFAの大会からヨーロッパのクラブへというひとつの道筋が示された。それこそが安英学が願っていたことでもある。トンジュンもアルメニアは断念したが、また再びの海外移籍に決意を新たにしている。
サッカーで橋を架け続ける
「トンジュンはグループリーグの試合を経るごとに伸びていったと思います。