演説ではこんな言葉を使った。「今回の事件にはユダヤ系ないしユダヤ人青年学生の一部が積極的に参加した。これらの学生の親たちの多くは、わが国で大なり小なり責任ある地位、時には高い地位についている」(工藤幸雄『ワルシャワの七年』新潮選書、1977年)
ゴムルカはいわば「ユダヤ人特権」を喧伝し、ユダヤ人攻撃を始めた。ワルシャワ大学などで起こったレジスタンスは彼らの煽動によるものであり、今のポーランド社会の生活が苦しいのは、このユダヤ人たちのせいであるとしたのである。
ゴムルカはユダヤ系の国民を分断し、または懐柔するために、ポーランドに居住するユダヤ人を三つに分類した。一つめが、イスラエルが祖国だと唱えるユダヤナショナリストで、この人々からは市民権を取り上げて、亡命用のパスポートを供与した。すなわち国外への追い出しである。二つめはポーランド市民でありながら、ユダヤ人のアイデンティティーも併せ持つ者。いわばコスモポリタンだが、彼らについては、民族的自覚が足らないという理由をつけて公務員などの要職から追放した。三つめは、ユダヤ系ではあるが、祖国はポーランドであると公言している者。民族アイデンティティーの持ち方はまさに個人の自由であるのだが、ここに国家への忠誠心を持ち込み、更には忠誠心の度合いによって、一方的にグループを決めるというものであった。
この演説の日以降、ユダヤ排斥運動が始まり、多くのユダヤ人たちが、国家によってポーランドを追われ、他国に移住していった。
ポーランドは15世紀以来、ユダヤ人に対して寛容な国とされてきた。スペインなどから、迫害を逃れて来たユダヤ人たちを(その技術や経済力の吸収を目的にしていたにせよ)社会の一員として寛容に迎え入れて共存してきた。そもそもヘブライ語の研究者によれば、ヘブライ語で「ポーランド」を示す「ポーリン」は、ポ(ここで)リン(休む)、「安息地」という意味からきているという。国内にゲットー(ユダヤ人の強制居住区域)やアウシュビッツ強制収容所を作られたナチスドイツの時代も、迫害からユダヤ人を匿ったポーランド人は多かった。
しかし、「3月事件」以降はまったく異なった。政府はデマを流布し、大量のユダヤ人を追放したのである。国民もそれを容認した。
政府側はポーランド民衆の中にも反ユダヤの感情が横たわっていたことを見抜き、巧妙に操作したとも言えよう。
「絨毯の下」に隠された過去
このユダヤ人への迫害は、民主化後も長きにわたってタブーとされていた。ポーランドにおいてアンタッチャブルな事件と言えば、アンジェイ・ワイダ監督(1926~2016年)が2007年に映画化した「カチンの森事件」(注4)があったのだが、口を閉ざすという意味ではそれ以上であった。
貴重な証言がある。現在、ワルシャワ大学で教鞭を執るアンナ・オミ教授は1980年代の社会主義政権下、ワルシャワのレイタン高校に在籍している頃から民主化闘争に身を投じていた。1772年の第一次ポーランド分割(注5)に命がけで反対した愛国者タデウシュ・レイタンの名を冠したこの高校は、反政府運動の拠点でもあったのだ。アンナは言った。
「当時の歴史教育では国内外の反社会主義的な運動はなかったことにされていて、1956年の『ハンガリー動乱』、68年の『プラハの春』もまったく教わることはなかった。でもレイタン高校は地下出版が盛んだったので、そこで発行された書物で公の歴史教育以外のことも学ぶことが可能だった。だから、『カチンの森』のことも知ることができた。ただ、『3月事件』については、英雄譚のように自由を求める運動があったことは書かれていても、その後に起こったユダヤ人迫害については一切、記されていなかった。理由? そうですね。『カチンの森』事件では、ポーランド人はソ連の被害者だった。しかし、『3月事件』の後のポーランド人は、ユダヤ人に対する加害者になってしまったのだから」
ナチスドイツ侵略後、アウシュビッツ強制収容所などで国内300万人ともいわれるユダヤ人を虐殺されたポーランドは、あくまでナチスの被害者で、その加害者性について触れられることは少なかった。しかし、第2次世界大戦後も家を追い出したり、商売をしている店を襲ったりするユダヤ人迫害は、幾度もあったという。
「一部ではあっても、ポーランド人もユダヤ人を差別していた。ポーランド語には、『絨毯の下に隠す』という言い回しがあるのですが、まさにポーランド社会は絨毯を被せて、ユダヤ人を排斥した過去を封印していたのです」(アンナ)
民主化を進める「連帯」の地下出版においても反ユダヤ的な出版物は多くあったという。ヤツェック・クーロンをはじめとする「連帯」の幹部や、その支持者にはユダヤ人も多かったにもかかわらず、ユダヤ差別は根強く残り、そしてそれを認めようとしてこなかった。
右傾化と不寛容の再来か…
そして世界的な潮流なのか、不寛容な時代がポーランドにもまた来ようとしている。2018年2月1日、ポーランド議会は、ナチスドイツが行ったホロコーストに関する表現について罰則を設けるという新法を可決したのである。これは、ポーランド人がこの戦争犯罪に加担したことを指摘して批判したり、アウシュビッツなどの強制収容所を「ポーランドの死の収容所」と表したりすることを禁止し、違反者には最高で禁固3年が科されるというものである。この法律は、与党である右派民族主義政党「法と正義」が中心となって成立させた。噛み砕いて言えば、ナチスの犯罪は我々には無関係だという主張であった。しかしそれに加担したポーランド人がいたことも事実である。この立法に対してイスラエル政府が激怒。
一方、ポーランド国内では、極右勢力の影響を受けて、反ユダヤデモがまたじわじわと巻き起こっている。
アンナは生粋のポーランド人であるが、ヘブライ語をはじめとするユダヤ文化の研究もしており、関わりのあるユダヤ人コミュニティが危機感を持っていることを指摘した。
「今、ワルシャワのユダヤ人は排斥されることを怖がって、勉強会や講演会もなかなかオープンに開催できない。
(注1)
レフ・ワレサ(ヴァウェンサ)…1943年生まれ。ポーランドの労働運動家、政治家。造船所の電気工として働いていた80年、物価上昇を機に起こった造船所との労働争議を主導し、政府から独立した自主的な労働組合「連帯」を政府に公認させた。「連帯」の初代委員長に選出され、「連帯」がポーランド全国に広がる中、80年代のポーランド民主化運動の中心的人物となった。83年ノーベル平和賞受賞。社会主義政権崩壊後、90~95年に大統領を務めた。
(注2)
「連帯」…ポーランドを一党支配していた「統一労働党」に属さない組織として、1980年に設立された独立自主労働組合。初代委員長はレフ・ワレサ(ヴァウェンサ)。「連帯」の組織は全国に広がり、最盛期には1000万人近い労働者が加盟した。81年に政府が戒厳令を布告したことで多数の幹部が拘束されたが、残った組合員が地下活動を始め、政府への抵抗を続けた。
(注3)
制限主権論…1968年、チェコスロバキアの民主化運動「プラハの春」への軍事介入後、ソ連のブレジネフ書記長が提唱した理論。ブレジネフ・ドクトリンともいう。個々の社会主義国にとっての脅威は、社会主義共同体全体にとっての脅威であり、社会主義共同体全体の利益の前には、個々の国家の主権は制限されるものであるとし、ソ連が必要と判断すれば、軍事介入の対象となりうるという考え方。89年に放棄された。
(注4)
「カチンの森事件」…第2次世界大戦中の1940年に、ソ連・スモレンスク郊外のカチンでポーランド人将校約4400人がソ連軍によって殺害された事件。他地域も含めて、全部で約2万2000人のポーランド人捕虜が大量虐殺された。ソ連は90年になるまで、ナチスドイツの仕業であると主張して、責任を認めなかった。アンジェイ・ワイダ監督がこの事件を題材に制作した映画は、邦題『カティンの森』。
(注5)
第一次ポーランド分割…ポーランド王国の弱体化によって、ロシア帝国、プロイセン王国、ハプスブルク帝国という周辺3カ国から領土の分割を迫られ、1772年に国土の約3分の1を失った事件。