これはポーランド社会にとっても不利益なことだけれど、今までユダヤ人問題を公にしてこなかったことのツケが回っている」
「連帯」のワレサや、それを戒厳令で潰したヤルゼルスキ将軍など、1980年代の民主化変革期から現在まで、主な政治家たちの通訳をほとんど務めてきたアンナは、旧労働者党も「連帯」も置き去りにしてきた問題を鋭意に見つめていた。
国家にとって不都合な過去を検証する
しかし、不寛容な法律が作られても、自由を愛するポーランドの精神はまだ健在でもあった。18年5月、アンナがすばらしい展示会があるというので観に行った。「3月事件」からちょうど50年が経過した2018年、ポーランド文化・国家遺産省などによって設立されたワルシャワのユダヤ人歴史博物館で、この一連の事件を自国の歴史として徹底的に検証した特別展示会が催されたのである。
タイトルは「OBCY W DOMU」(家の中のよそ者)。「家族」として共存すべき同じ「家」の中にいながら、排斥してしまったユダヤ人のことを指しているのは言うまでもない。展示は情緒的なものを一切交えずに粛々と事実を伝えていた。発端となったミツケヴィッチの「父祖の土地」がどのような演劇であったのか。ナロドヴィ劇場の写真。そして今で言うところの、国家のトップによる「ヘイトスピーチ」であるゴムルカの演説の映像。ユダヤ排斥のビラやポスター。国を追われるユダヤ人たちの残した手紙……。
多くのユダヤ人を受け入れた国がアメリカ、そして北欧の国々であったのだが、興味深かったのが、実際に政治亡命者が使用したスカンジナビア航空の航空券までもが展示されていたことである。映画にもなったタチアナ・ド・ロネの小説『サラの鍵』(2006年)は、ナチスドイツに降伏した後、フランスのヴィシー政権とフランス人が、ユダヤ人迫害に大きく加担したことをフランス人作家がしっかりと見つめ直した作品である。事実のディテールにまでこだわった展示はまさに『サラの鍵』を思い出した。
これまで、「3月事件」についてはユダヤ系のシャロン財団が3月8日にワルシャワのグダニスク駅で細々と祈念集会を行うだけで、ここまで大規模な展示が行われたのは初めてであった。
民主化運動への弾圧も、「3月事件」も、その後のユダヤ人迫害も実際に目撃し、それらが歴史の闇に葬られていくさまを見ていた工藤さんが、もしもこの特別展を観ていればどれだけ喜んだことか、思いを巡らした。ポーランドを心底愛した工藤さんは生前、「3月事件」とユダヤ排斥事件の検証がない限り、ポーランドの真の民主化、自由化は訪れないと語っていた。
近年、排外的な施策を用いて内政における求心力を得るという傾向が各国に広がっている。一方で、それに対するカウンターのような動きもつぶさに見てとれる。例えば同じく2018年には、韓国政府が、長く国家的タブーとしてきたジェノサイド、済州島四・三事件を「我が国の歴史の一部」であると総括した(連載第6回)。
どんなに隠したい過去があっても、国家として自国の歴史を相対化して検証している姿勢に遭遇すると、励まされる気がする。そこに、ナショナリズムに依存しない政治家の良心と、真の愛国心を感じるからだ。
(注1)
レフ・ワレサ(ヴァウェンサ)…1943年生まれ。ポーランドの労働運動家、政治家。造船所の電気工として働いていた80年、物価上昇を機に起こった造船所との労働争議を主導し、政府から独立した自主的な労働組合「連帯」を政府に公認させた。「連帯」の初代委員長に選出され、「連帯」がポーランド全国に広がる中、80年代のポーランド民主化運動の中心的人物となった。83年ノーベル平和賞受賞。社会主義政権崩壊後、90~95年に大統領を務めた。
(注2)
「連帯」…ポーランドを一党支配していた「統一労働党」に属さない組織として、1980年に設立された独立自主労働組合。初代委員長はレフ・ワレサ(ヴァウェンサ)。「連帯」の組織は全国に広がり、最盛期には1000万人近い労働者が加盟した。81年に政府が戒厳令を布告したことで多数の幹部が拘束されたが、残った組合員が地下活動を始め、政府への抵抗を続けた。
(注3)
制限主権論…1968年、チェコスロバキアの民主化運動「プラハの春」への軍事介入後、ソ連のブレジネフ書記長が提唱した理論。ブレジネフ・ドクトリンともいう。個々の社会主義国にとっての脅威は、社会主義共同体全体にとっての脅威であり、社会主義共同体全体の利益の前には、個々の国家の主権は制限されるものであるとし、ソ連が必要と判断すれば、軍事介入の対象となりうるという考え方。89年に放棄された。
(注4)
「カチンの森事件」…第2次世界大戦中の1940年に、ソ連・スモレンスク郊外のカチンでポーランド人将校約4400人がソ連軍によって殺害された事件。他地域も含めて、全部で約2万2000人のポーランド人捕虜が大量虐殺された。ソ連は90年になるまで、ナチスドイツの仕業であると主張して、責任を認めなかった。アンジェイ・ワイダ監督がこの事件を題材に制作した映画は、邦題『カティンの森』。
(注5)
第一次ポーランド分割…ポーランド王国の弱体化によって、ロシア帝国、プロイセン王国、ハプスブルク帝国という周辺3カ国から領土の分割を迫られ、1772年に国土の約3分の1を失った事件。