さすがに国境線を変えることは米国も認めないであろうから、このナショナリズムの落としどころはどこになるのか、不安はぬぐい切れない。
クラスター爆弾と劣化ウラン弾にさらされた町、ニシュ
コソボ紛争については、切り取り方で見方が180度変わってしまうので、前置きがどうしても長くなる。空爆20周年記念式典の取材は、当時の傷跡と現状のルポ、双方を交えなければ、ただの政治ショーの紹介に堕してしまうということを心掛けないといけない。
最初に向かったのは、セルビア南部の都市ニシュ。空爆時に大きな被害をもたらされ、大量の難民を生んだ町である。
余談だがサッカーの世界で言えば、ここは名古屋グランパスで選手、監督として活躍したドラガン・ストイコビッチの故郷でもある。NATO軍による空爆時、その「ピクシー(妖精)」が生まれた町に、クラスター爆弾が投下されたことはあまり知られていない。クラスター爆弾は、集束爆弾とも呼ばれており、大量の子弾を内包する親弾が空中で爆発すると、散弾して広範囲を破壊・殺傷する。かつてはベトナム戦争で米軍が用いて猛威を振るった兵器である。着弾後も実に約4割の不発弾が残り、それに触れた子どもを含む非戦闘員が殺傷されることから、非人道性が古くから指摘されており、2008年以降はオスロ条約によって保有、製造、使用等が全面的に禁止されている。
ユーゴでも当然ながら悲劇は起きた。ブラニスラブ・カペタノビッチ(当時35歳)は、空爆終結から約1年半が経過した2000年11月にニシュから30キロほど離れたクラリエボで地雷の除去・回収処理をしていて不発弾の被害に遭った。一時は心肺停止状態となり、20回以上の手術を受けて命は助かったものの、両手両足を切断、片目は失明、左耳の機能も失っている。それでもカペタノビッチは、不屈の精神でリハビリに励み社会復帰を果たすと、クラスター爆弾の禁止を目指すNGO「クラスター兵器連合」のスポークスマンとしての活動を開始する。
2008年4月には来日して、当時クラスター爆弾の全面禁止条約への参加態度を保留していた日本政府に対して「条約制定にぜひ参加して欲しい」と訴えた。日本政府はクラスター爆弾を保有しており、「抑止力として使うことは評価されるべき」と主張していたが、カペタノビッチは、「爆弾に良いも悪いも無い。使用すれば民間人が傷つくので抑止どころか、被害は増える」と当事者として一刀両断した。日本滞在中はクラスター禁止シンポジウムに出席し、衆参両院議長への訪問や記者会見など、精力的に活動し、名古屋ではグランパスのストイコビッチ監督(当時)とも面談した。ストイコビッチもまた「この爆弾で最も被害に遭うのは、子どもたちだ」と廃絶を訴えた。
日本はようやく2008年にオスロ条約に署名して、15年にはクラスター爆弾の廃棄を完了した。ただしアメリカ、中国、ロシアなどは条約を締結せず、現在も保有している。今年、コソボで空爆の祝賀式典が行われることを知ったカペタノビッチは、どんな気持ちになっただろうかと想像するだけで心が痛む。
ニシュのシュマトバチカ通りに立つと、かつてガレキの山となっていた地域はすでに整備されていて、20年前にここを救急車が走り回り、遺体が多く積み上げられていたとはにわかには信じがたい。しかし、紛れもなく、このストリートにも多くのクラスター爆弾が着弾していたのだ。あの空爆ではそれだけではなく、内部被ばくによる健康被害が報告されている劣化ウラン弾も多数撃ち込まれている。セルビア政府が回収や調査をしていたが、果たしてどこまで進んだのか。
一泊したニシュのアパートのオーナーは「クラスター爆弾や劣化ウラン弾のことは、誰も言わないし、聞かない。もう無かったことにされている。20年が経って、我々ももう忘れるしかないな」と苦笑する。これこそ塵芥の声だ。伝えようとする意志や努力が無ければ戦争が風化するのは、あっと言う間である。
セルビアは今、かなりの中国資本が入って来ているせいか、やたらと中華料理店が増えた。ニクシッチビールと春巻きの夜食を取ってから、就寝。格安アパートメントは日本円で1泊約3000円。ニシュは首都ベオグラードと比べると物価は安いが、それでも副業をしないと庶民の生活は苦しいとアパートのオーナーは言う。セルビアの平均公務員給料は月250ユーロ(約30000円、1ユーロ=約120円)である。
「俺たちは数字ではない」
翌日、ニシュからバスに乗ってさらに南に下った。入ったのは、コソボとの国境近く、セルビア南部の都市ブヤノバツである。この町は人口の約6割がアルバニア人、4割がセルビア人。セルビア国内でありながら、人口比率は逆転している。それを理由に今、コソボ内でセルビア人が多数派を占める北ミトロビッツァと、このブヤノバツの領土交換というアイデアが浮上しており、米国政府も推奨している。もし領土交換が実現したら、それぞれの住民はパスポートや国籍を変更しなければならず、それが嫌なら移住するしかなくなる。人口比だけを根拠に、国境線さえ変えれば紛争は無くなると考えている政治家は、バルカン半島の民にとって祖先の土地を捨てることが、どんなに辛いことかまったく分かっていない。
カフェでくつろいでいたブヤノバツ生まれのセルビア人、ミオミル・ストイリコビッチにこの提案をどう思うか聞いた。
「俺はここに生まれて以来、51年ずっと暮らしている。今は家を持っているし、仕事も二つある。養うべき家族もある。領土が交換されたら、パスポートもセルビアからコソボに変わってしまう。セルビア国籍のままでいたければ移住するしかないが、ミトロビッツァには一度も行ったことが無い。
本国
コソボのアルバニア系住民によるアルバニアの呼称。