「麻酔法は歯科医が発見したんだよ」。親知らずを抜く際、麻酔の準備中だった歯科医が、その歴史を教えてくれた。1846年、ウイリアム・モートンというアメリカ人歯科医が、エーテルを吸引させると痛みがなくなることを「発見」、公開手術で証明してみせた。患者を手術の激痛から解放すると同時に、外科手術を飛躍的に向上させた麻酔だが、同時に大きな問題も引き起こしていた。モートンが麻酔法の特許を取得したのだ。それまでは「医は仁術」、それでもうけるのは医者の倫理に反すると考えられていた。ところが、モートンが麻酔法で特許を取得したことで医療がビジネス化、「医は算術」と言われる現状を生み出したという。
モートンが先駆けとなった「医療特許」は、医学に関連する特許の総称。先進的な薬や検査器具などの開発に成功した開発者の権利を守ることが目的である。
医療特許の中核を占めるのが医薬品に関するもの。その仕組みは複雑で、物質特許、用途特許、製造特許などが組み合わされている。「物質特許」は新たに生成された化合物などに対するもの、「製造特許」はその製造方法に対するものだ。「用途特許」はある化合物に、新しい用途があることを発見した場合に与えられるもので、他の人が物質特許を得ている化合物でも取得できる。したがって、ある化合物について、それまで知られていなかった利用法を見つけて用途特許を取得すれば、その化合物の物質特許の保有者であっても、その利用法に限っては自由に使えなくなる恐れがある。そのため、物質特許を申請する際には、可能な限りの用途特許も同時取得するなど、複雑な特許戦略が必要となっている。
内視鏡などの検査機器や手術の精度を上げる「手術ロボット」などの医療器具にも特許が与えられるが、医療行為に対する特許は認められていない。医療行為とは手術方法や診断方法といった医療ソフトの分野で、「産業上利用できる発明ではない」というのがその理由。したがって、画期的な心臓手術の方法を編み出しても特許は取得できず、すべての医者が実施できる。「医は仁術」との考えが唯一残されているのが、医療行為への特許不適用なのだ。
しかし、医療特許の存在が、医療のビジネス化をもたらしていることは明らかだ。医療特許は、開発者に独占販売権を与える。また、アメリカの様に開発者が価格を決められる場合はもちろん、日本のように行政機関(厚生労働省)が価格(薬価)を決める場合でも、開発者が求める新規性や開発費用などが上乗せされる。その結果、価格が高騰して患者が使いたくても使えなかったり、健康保険の財政を圧迫したりしている。その典型がオプジーボ、がんの特効薬だ。保険適用された当初の投薬費用は年間一人あたり約3500万円、患者や健康保険組合に与える財政負担の大きさが問題になった。批判を受けて、その後に薬価は引き下げられたが、患者を救うために作られた特効薬が、高価すぎて使えないというジレンマを生んでいるのが医療特許なのだ。
麻酔注射の際にはちくりと痛みが走ったが、そのあとは痛みを感じることなく抜歯が終わった。麻酔が無かった時代のことを考えると、背筋が寒くなる。「モートンに感謝しなくては……」という歯科医に同意しながらも、麻酔の医療特許がもたらした弊害の大きさも知ることになった。医療特許を巡る紛争も頻発し、新薬の発見で製薬会社の株価が上昇することもある。「医は算術」となっている元凶が、医療特許なのである。
医療特許
[Medical Patent]