「要件の一つめは、文藝春秋のメインの読者、つまりおじいちゃんおばあちゃんたちに媚(こ)びること。若いのに文学なんていう堅苦しい作業を真面目に頑張っていますよ、っていうアピールが大事。文学が好きなんだ、っていう態度を表明する。もう一つは、なぜ自分がこの作風、主題を選択したのか、せざるを得なかったのか、その説明を作品で表現すること」
なるほどと膝を叩きました。この要件に従って自作を書こう! もう僕は、次の半期に芥川賞を獲った気になってしまいます。
しかしこれはまた別の先輩作家から先日指摘されたことなのですが、
「現状の作風を変えて受賞してしまっては、以後受賞作がその作家の代表作と見なされてしまう恐れがある」のだと。
確かに、そう考えてみると、「寄せて」書くという行為は、作家として危ういなと同意しました。芥川賞というシステムに支えられている業界において、そこを登竜門として通過したくはあるのだけれど、通過し得る作品が作家にとって胸を張れる作品であるという確証はない。むしろ、そうでない場合のほうが多いのかもしれない。なるほど、いくら非採算部門とはいえ、売り方には決まりがあって、そこにベットしなければ、商業的な出世は望めないわけか。難しい問題です。
実は僕は現在、大手出版社の近隣で仕事をさせてもらっています。様々な事業を展開している会社に所属しているのですが、一応は編集プロダクションで、僕の業務としては、一つは漫画の単行本の編集があります。漫画作品が作られている現場も日々、目の当たりにしています。そしてそれが莫大な利益を生み出しているという現実を肌で感じています。だからこそ、曲がりなりにも純文学という非営利な営みに携わる自らの現況に、切なさを感じずにはいられないわけです。
「極少数の人たちにしか届かないもののために、自分は今後どれだけ尽せるのだろう?」とつい、自問してしまうのです。
物語の書き手というより、商売人としての欲が湧いてきた、ただそれだけなのかもしれません。
いや、違う。自分が売れないのは、純文学という空間で作品を発表しているからではない。僕は純文学が売れないジャンルであることを言い訳に、商品価値のないものを作っている事実から目を背けているのではないか? ジャンルのせいにして、自分がするべき努力を怠っているだけなのではないか? 純文学だろうがエンタメ小説だろうが漫画だろうが、売れるやつは売れるし、そうじゃないものは淘汰されて然(しか)るべきなのだ。
いや、そもそも、僕は売れることを目的として文芸誌に作品を応募したのだろうか? 自由、自由と言って、自らに都合のいい選択をしてきただけではないのか?
5・再び、純文学って何だよ
じゃあ、鴻池留衣、お前はどう思っているんだよ、という話になってしまいますよね。人に聞くだけ聞いておいて、ずるいじゃねえか。お前は純文学を、目下のところ、どのように解釈しているんだよ、と。お前だって当事者だろ、当事者としての判断なり解釈なりを提示してみろよと。僕なりの、というか、僕が最もしっくりきている純文学の定義はこうです。
まず、純文学の際立った特徴として、「ネタバレ」が機能しません。
どういうことかというと、オチとか、ストーリーの事前の流出が、作品の商品価値を毀損(きそん)しないということです。例えば、読む前にその話の筋を知ってしまうと、読後の感動が損なわれてしまう作品って、数多(あまた)あると思うのです。どんでん返しとか、隠された真実が後半で明らかにされる内容のものです。話の筋によるカタルシスを売りにした作品です。そうではなく、事前にどんなことが書いてあるのか知っていたとしても、読んでみないとその小説の価値がわからないもの。よく「文学とは文体だ」とかいう議論がありますが、そんなみみっちいことは言わなくても、もっとマクロに、単純に、純文学を説明するのにちょうど良い。
本を読むという行為には、いろいろな目的や効果がある。ある本には、絶対に正しい読み方が構造上組み込まれている。正確な情報を読者に伝えることを第一義として執筆、編集された本です。例えばそれは、学術書とか、評論だとか、読者に対してフェアでなくてはいけないミステリーだとか、緻密な世界観を提示するファンタジー、S Fだったりするのかもしれません。一方で、どのように解釈してもいいという作家側の意図によって拵(こしら)えられた文章もあるのです。むしろ、どのように解釈されたとしても、作家側の意図は読み解けないだろうという、ある種意地悪な魂胆で執筆された小説もあるくらいです。僕はそのように自作を書いているので、要するに世の中には、読解をあえて拒む小説などごまんとある。その場合、文章の意味するところよりも、読むという行為そのもののほうが、その商品価値を担保していることになります。
そう、読むという行為そのものが快楽になる。
例えば好きな音楽って、何度聴いても飽きないじゃないですか。曲の構成だとか歌詞だとか、何度も聴いて知り尽くし、暗誦できるようになったり、自分で演奏したりしても、繰り返し楽しめますよね。純文学って、それに近い気がするんですよ。音楽を聴く快楽は、純文学を読む快楽と性質が似ている。無論、エンタメ小説だって繰り返し読みたくなるものもありますけれど、純文学はもっと、言葉を「音楽」的に売りにしている点で大きく異なるのです。
「音楽」的言葉は、必ずしも読者に対して誠実な形をしているわけではありません。実は純文学って、文章下手くそな作品が結構あるんですよ。え、まさか、と意外に思われるかもしれませんね。文章表現の上手な作品こそが純文学だという誤解が、結構広まっている気がします。
下手なんだけど、読み進めていけば、この作品の文章はこうでなければならなかった、という必然性を、それが好きな作品であった時、ひしひしと感じます。こういうのを「文体」と呼ぶのでしょうかね。下手な文章が、作品の怪しい魅力を演出したりする。生身の体から生まれてきたグロテスクな文章が、小説の味わいを提供している。そう、純文学って、身体と密接な関係性があるんです。そういうところもまた、音楽に似ていると僕は考えます。
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