1・純文学が載る「文芸誌」
「純文学って何だよ」って感じですよね、皆さん。何だか堅苦しく、暗く、つまらなく、驕(おご)り高ぶった、作家のオナニーの産物、くらいの認識でしょうか。正直に言って、そういう世間一般のイメージをあえて利用して、現代の純文学は成り立っている節もあると思います。誤解されたままでいたほうが、「じゃあ、どんなもんか試しに読んでやんよ」みたいなモチベーションを湧かせやすいかもしれないですし。
純文学と言われる小説は、教科書に載っているような遠い過去のものだけでなく、実は現代でも細々と生産され続けています。
「文芸誌」をご存じですか? 「純文学」と呼ばれるジャンルの小説、戯曲、それから詩や短歌、批評などが載っている雑誌のことです。また、当該雑誌や、版元が主催する文学賞の結果を誌面で発表し、受賞作、選考委員による選評が掲載されたりもします。文筆家同士の対談や座談会などの企画もありますし、映画や音楽など活字以外のジャンルで特集を組んだりもします。文芸誌には、メジャーなところでは大手出版社が発行する「五大文芸誌」があります。新潮社の『新潮』、文藝春秋の『文學界』、集英社の『すばる』、講談社の『群像』、河出書房新社の『文藝』、この五つです。見たことも聞いたこともない、という方も大勢いらっしゃることでしょう。上に挙げた五つ以外にも、早稲田大学が発行する『早稲田文学』、慶應義塾大学の『三田文学』、朝日新聞出版の『小説トリッパー』、書肆侃侃房の『ことばと』など、存在感を放つ雑誌がいくつかあります。
以上の事実を踏まえつつ、本記事では文芸誌を、小説にのみフォーカスして、以下のように定義します。すなわち、「純文学と呼ばれるジャンルの小説を発表する媒体が、文芸誌である」と。なぜなら、「純文学」とは何かを定義する際、「文芸誌に載った小説作品がすなわち純文学である」とする見方が、現場に携わる人たちの間で現在最も一般的だからです。小説には、エンターテインメントやライトノベルなど、読者の嗜好に合わせて様々なジャンルの棲み分けが存在しています。純文学と他ジャンルとの区別の指針として、文芸誌という、初出の発表媒体による基準があるということです。『週刊少年ジャンプ』なら少年漫画、『週刊ヤングジャンプ』なら青年漫画、といった具合でしょうか。しかしこの二つはどちらも、作品を売って利潤を得ることを念頭に漫画を発表する場所であることに変わりありません。一方、文芸誌は必ずしもそうではありません。売れなくても構わないことを前提とした小説を、延々と発表し続ける場所なのです。出版社としては、まさに非採算部門なのです。
純文学の定義は難しく、人によって意見はまちまちです。「純文学=私小説」というのは保守的な立場で、なおかつ説得力もあります。「日本独自のカテゴリーなんだ」「そもそも純文学などというものは実質存在しないんだ」なんて主張する人もいるし、「今やエンタメとの垣根は、出版社による権威付け以外存在しない」とまで嘯(うそぶ)く人もいる。だからこそ、純文学とは何かを説明する際、最も当たり障りなく、お茶を濁すことができるのが、「文芸誌に載れば純文学なんだ」という言いかたなのでしょう。
文芸誌界隈ではなく、もっと広く出版業界全体を俯瞰してみます。上半期、下半期と一年に二回決定される「芥川龍之介賞」。芥川賞受賞作を指して、「これは純文学である」と言い切っても差し支えないと思います。なぜなら、非純文学(大衆小説・エンターテインメント)作品を対象とした、「直木三十五賞」がセットで存在し、同時に受賞作が決定されるからです。そして芥川賞の候補作は、基本的に五大文芸誌の掲載作品の中から選出されます。ちなみに、芥川賞は新人賞です。デビューしてからおよそ十年以内の、まだ芥川賞を獲っていない作家が、この世界では新人として扱われます。
その事実に鑑みれば、やはり文芸誌こそが、純文学を規定する主な要因であることは間違いないようです。
2・純文学作家としてデビューする
ということは、僕、鴻池留衣は「純文学作家」です。文芸誌『新潮』が主催する新潮新人賞という公募型新人賞を受賞して、二〇一六年にデビューした小説家ですから。
実を言うと、「純文学が書きたい」という確固たる信念があったわけではありませんでした。好きな小説は確かに、谷崎潤一郎や大江健三郎、石原慎太郎の初期作など、純文学にカテゴライズされるものが多かったので、そこへ向かう姿勢で執筆を始めたのは確かなのですが、本など大した数も読んでこなかったし、ただ漠然と小説家を目指しているだけでした。
どうして小説家になろうと思ったのか、という類のことを、よく質問されます。僕の場合、「気づいた」んです。あるとき不意に、小説を書いていくその後の人生が決まっていた事実に、気づいたんです。どういうわけか小説を書きたいと思うようになった。そのようにしか言いようがありません。
ただし、「自由に書きたい」という希望だけは当初から熱烈に持っていました。その「自由」なるものが果たして何についての自由なのか、はっきりさせようと試みずに。書く主題を自由に選びたいのか、文体を自由に選びたいのか、構成を自由に決めたいのか、モラルから解放されたいのか、など具体的に考えず、ぼんやりと、しかし切実に、「自由に書きた」かったのです。格好つけた言い方をしてしまいますが、あるいは小説を書くという行為自体が、僕にとっての「自由」の探求なのかもしれません。