『週刊ポスト』(5月22・29日号)では「「若者にコロナ治療譲ります」あなたはこのカードに署名できますか?」としてこのカードを取り上げ、評論家の呉智英氏が「今こそ『トリアージ』の問題を本格的に議論していくべき」「現役医師(石蔵氏)が提唱したこのカードは意義のあることだと思います」と高く評価した。
この流れだけを見ると、日本では「年齢によって『命の選別』をするなんてとんでもない」と憤るどころか、高齢の当事者が自ら「医療資源を若い人に譲ります」と申告しようとしているように思える。
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しかし、本当にこれは高齢者の自発的な意思と言えるのだろうか。
たしかに、かなり前から「人生の最終段階(終末期)を迎えたときの医療の選択について事前に文書などで意思表示しておく」、つまりリビング・ウィルの動きが広まり、現在は高齢者の入院に際して、医師が家族に「もしもの場合の延命措置はどうしますか」と確認するのも一般的となった。また、リビング・ウィルを含め「最期をすごす場所」などについて、患者の意思決定がはっきりしているうちに家族らと話しあっておく「アドバンス・ケア・プランニング(ACP)」を、いま厚労省も勧めている。
とはいえ、このリビング・ウィルやACPに関しても、「それは本当に自分の意思なのか」という問題がつきまとうことは事実だ。私も、かつて入院中の何人もの高齢の患者さんたちから、「本当はもっと生きたい」「家族に迷惑はかけたくないが死にたくない」という言葉を聞いた。家族にしても同様で、入院時には「延命措置はいりません」と申告したが、いざとなったら「見殺しにしないで!」と叫んだ人もいた。それは当然だと思う。自分あるいは親の死という、ある意味、人生でいちばん大きなできごとの前で、冷静でいられる人などいるわけはない。ホスピス医として患者さんたちに「死は怖くありませんよ」などと伝えてきた人が、自分ががんになったとたん「最新の治療を受けたい。なんとしても助かりたい」と言い出した、という話も聴いたことがある。それもまた驚くことではない。仕事として第三者に接するのと、「当事者」として直接、体験するのとでは、できごとの意味が決定的に変わるのは自然のことだ。
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ここで私が言いたいのは、「考えがぶれるのはあたりまえ」ということだけではない。本人が「自分の意思」としたことでさえ、立場や状況によってこれほど変わるのだ。まして、そこに周囲からの圧力や世間の意思が介入したらどうなるだろう。「いま『譲カード』というのが流行ってるらしいよ」と家族から聞かされたり見せられたりした高齢者が、自分の意思かどうかもさだかではないのに、「自分も所持しなければならないのか」と感じて署名することもあるのではないだろうか。あるいは、一度は「それはいいね」と署名し、その後、考えが変わったとしても「もうやめる」と言い出しにくい、ということもあるはずだ。
石蔵医師は、このカードは「命の選別」を行う医療関係者に負担をかけないため、と目的を語っていた。もしこれが普及し、コロナ感染症の第二波で人工呼吸器が不足したとき、カードを持った高齢者が搬送されてきたら医師は本当に呼吸器を装着しないのだろうか。助かる可能性がきわめて低い進行性の病の末期にある患者に延命措置をしないことと、コロナによる肺炎など急性の疾患の患者に必要な手当てをしないことでは、その重みはまったく違う。このカード一枚程度で、医師が「若い人に呼吸器を使おう」と決断するのはあまりに安易ではないか。「命の選別」というのはあくまでも、前半で紹介したスペインのケースのように、行う医者は涙声で家族に伝え、その家族は「国に殺された」と憤りをぶちまける、というようなものなのだ。いや、そうでなくてはならない。どんな意思表示の手段ができたとしても、「命の選別」が機械的なものになったり、行うものが自分がしたことの重大さに痛みを感じずにすんだりすべきではない、と私は思う。
そうでないと、「命の選別」はあっという間にその範囲を広げていくかもしれない。たとえば、「退院できた場合の予測寿命」が選別の基準のひとつになるのであれば、「年齢は若いが、がんで余命が限られている」という子どもの治療はどうする? 身体に重い障害があって寝たきりの場合は「予測寿命」を健常な人と同じと考えてよいの?といった具合だ。
さらに、「予測寿命」だけではなく「その間にどれくらい生産性を上げて社会に貢献できるか」といった要素も折り込んではどうか、という議論は出ないだろうか。そんなことは考えすぎだと思う人もいるかもしれないが、それは違う。
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今回の新型コロナウイルス対策として、国はひとり一律10万円の特別定額給付金を支給することを決めた。しかし、それが生活保護世帯の人たちにも支給され、収入として認定されない(つまり生活保護の給付金は減額されない)ことをめぐり、一部で「生活保護バッシング」が起きたのだ。それを伝える6月16日の西日本新聞の記事(「『10万円給付金もらうな』生活保護バッシングなぜ起きる」)によると、同社の読者投稿コーナーにも「働かざる者、10万円もらうべからず」という趣旨のコメントが相次いだという。
つまり、ここには「より困窮している人が支援を受けられるべき」どころか、コロナの被害は全国民に等しく及んだのだから、みな同じく支援を受けられるべき」という考えすらなく、「働いていない人は除外した方がよい」という明らかな選別の意識があるのだ。ここから人工呼吸器などの使用に関して「仕事をしている人と生活保護の人、どちらを優先すべきか」という議論に発展したとしても、おかしくはないだろう。
日本には、小説家の深沢七郎(1914~87年)が『楢山節考』(56年)で描いたような「姥捨て」の伝説がある。それがどこまで事実であったかは別として、現在も「誰にも迷惑をかけずに死にたい」との願いを叶えるという通称ぽっくり寺が全国にあって参拝客でにぎわうなど、「命の選別」に対して、それをする側もされる側も意外に抵抗がない土壌があるように思う。さらにそこに経済至上主義、ネオリベラリズムの考えが加わり、「稼げる人が社会に役立つ人」と同時に「稼げない人は不要な人」という価値観も若い人を中心に強まりつつある。その中では、「誰の命も平等」という意識を繰り返し確認し続けないと、あっという間に「命の重みには軽重や傾斜がある」といった考えが広まり、気づいたら「年齢トリアージ」にとどまらず「健康トリアージ」「収入トリアージ」「才能トリアージ」などがあたりまえに、という悪夢が訪れないとも限らないのだ。
さらに、もし第三者によって行われるトリアージではなく、「譲カード」のように自己申告制であれば、そこで選ばれる死は本当に「自己決定による死」なのか、という問題もある。医療社会学を専門とする市野川容孝氏は、『ナチズムの安楽死をどう〈理解〉すべきか」(「imago」96年9月号所収)という論文の中で、ナチスのプロパガンダ映画において神経難病の患者が安楽死を望み、夫によって実行されるというシナリオをあげながら、「自己決定」の名のもとに、身体障害者や精神障害者が無意識のうちに抑圧されてそうせざるをえなかった可能性に言及している。『楢山節考』のおりんも、安楽死につながる「楢山参り」を渋る息子・辰平を叱咤激励するようにして山に入る。一見、これも「自己決定による死」に見えるが、本当にそうなのだろうか。たとえ本人はそう思っていても、長年の風習、村の雰囲気などさまざまな要素が幾重にも重なり合い、無意識のうちにおりんにそれを“選ばせている”という可能性はないだろうか。何をもってして「(本当の)自己決定」とすべきかは、それほど単純に定義することはできないのである。
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「譲カード」には、もちろんそんな悪意や思惑などはないだろう。あくまで「若い人に生きてもらいたい、現場の医者たちを困らせたくない」という善意で考案されたもののはずだ。善意であるだけに批判がむずかしく、それが内包している問題は見えづらいが、だからこそ、ここまで述べてきたようにいっそう深刻なのだ。
きれいごとは言っていられない。それはたしかにそうだろう。