つまり、月額一定料金を支払えば、全国各地で簡単な電化製品などが備えられた部屋やホテルに泊まれるサービスが実際にいくつもあるのだという。
「もしそこが気に入ったらしばらくは腰を落ち着けて住むこともできるし、あちこちに移動しながら仕事してもよい。将来はそんな暮らしがあたりまえになると思います。学校もサブスク化して、親といっしょに移動しながら“今月は島根の中学で授業を受けて、来月は山形の中学へ”みたいになるか、完全にメタバース化されて学校にからだを運ばなくても授業が受けられるようになる可能性も高いと思います」
3年前なら、そういった話に対して「いや、でも実際に生身の身体を学校に運び、多くの生徒が教室で同じ空気を共有することにこそ教育の意味がある」などといった批判を述べる人もいただろうが、コロナが状況を一変させた。メタバース化された学校は感染対策という意味では完璧だし、多くの大学で“リアルな授業の代替”として始まったはずのオンライン授業は学生たちから好評を博し、実際に私が所属する大学でも「コロナが収束しても授業によってはオンラインを継続してほしい」という声が大きい。
とくに興味深いのは、「ヒトとモノの消失」というこの変化は、検討を重ねた末に意思的に選択されたものではなくて、「安くて便利なサービス」として出現し、「コロナによるパンデミック」という想定外の事態で加速度的に普及している、ということだ。いや、技術の爆発的な拡散は、いつの時代でも慎重に選び取られてではなく、こうやって“たまたま”のきっかけで起きてきたのだろう。とはいえ、今回のこの変化は、所有や存在、さらには「現実とは何か」「身体とは何か」「人と人とのつながりとは何か」といった人間にとって本質的な概念や問題を根底から塗り替えるものであり、「安くて便利だから」とすべてを受け入れてよいのだろうか、という疑問が残る。
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メタバースでの身体は、質量を持たずどこにでも行けるし好きなときに消すこともできる。好きな衣装をまとわせて体型も変えられ、飲まず食わずでも平気だろう。
しかし、リアルでの身体は、体型などの外見はすぐには変えることができず、食べたり飲んだりも必要であるし、病気にもなればケガもする。
メタバースの普及により、会社で人に会ったり、モノを所有したりすることはやめられても、この身体は消せないはずなのである。
いや、身体だけではない。
サブスクやメタバースに移行することで、本当に私たちはあらゆるわずらわしい人間関係やしがらみから解放され、仮想現実空間を浮遊するかのように好きなときに好きなところに移動したり、イヤになったらそこからすぐに消えたりすることができるのだろうか。
今夏以降に相次いだ無差別刺傷事件や、いじめに端を発すると思われる子どもの自殺などを鑑みるに、私たちは「そんなことはできない。できるわけがない」という「実在からの声」を聴くべきではないだろうか。
そして、そういった事件などとは方向性は逆とはいえ、卓越した身体能力、磨き抜かれたボディ、そしてスーパーカーなどでリアルなヒトとモノの威力を存分に誇示する新庄監督の突然の出現もまた、「消えゆく実在たち」の最後の抵抗や反乱ではないかと言うのは、あまりに想像が飛躍しすぎているだろうか。
実在はどこに行くのか。実在が消失したとき、身体はどうなるのか。
この問題は今後も考えていきたい。