この太宰ブームには、今年が太宰の生誕100年にあたる年、というのも関係しているだろう。記念すべき年にあたり雑誌で特集が組まれたり、その作品が映画化されたり、と「太宰治」という単語を目にする機会がやたらと多い。しかし、いくら出版社や映画会社が仕掛けても、読者が反応しなければそれほどの売れ行きにはならないはずだ。
私は毎年、「若者の生きづらさを考える」というテーマの授業で、「今から100年近く前にも、“生きづらい”と感じ続けた人がいました」と太宰の作品や人生を紹介することにしている。青森の素封家に生まれ、成績優秀、東大に進学して書いた小説はすぐに注目を集め、ルックスも抜群。才能にも環境にもこれほど恵まれているはずなのに、すぐに「死にたい」と思い、心中未遂を繰り返したり薬物におぼれたり。親族や知人にも迷惑をかけるが、結局は誰かに頼りながら生きていくことになる。
そして、自伝的な色彩の濃い『人間失格』や『斜陽』は、その屈折した自意識で埋め尽くされている。自分に自信が持てず、自己嫌悪に陥ったかと思うと、まわりの人たちを軽蔑して特権意識や万能感に浸る。いつも考えているのは自分のことばかりで、間違っても「社会のために立ち上がろう」などとは思わない。誰にも理解してもらえない、と決め込んでいるにもかかわらず、常に見捨てられるのでは、嫌われるのでは、という不安におびえている……。
こんな太宰の人生や作品を紹介すると、学生たちの半分は苦笑し、別の半分は真剣に聞き入る。レポートを出してもらうと、「何を苦しんでいるのかまったくわからない」などと書く学生はまれで、「この気持ちは私にもわかる」という前提のもと、そこで深い共感を示す人と、「いや、それでもがんばるべきなのでは」と考える人とがいる、という印象だ。
かつて、こういった太宰的な自意識の屈折は、精神医学の分野では、境界性パーソナリティー障害と呼ばれる独特の精神病理と共通していると言われていた。このパーソナリティーを持つ人は、傷つきやすい反面、他人の都合を考えずにもたれかかったり、かと思うと攻撃的になったり、と態度が一貫していない。相手を突き放したかと思うと過剰に親切になったりするので、まわりの人もどうつき合ってよいのかわからないままに振り回されることもある。
ところが今では、この依存と攻撃、自己嫌悪と特権意識、という相反する感情が併存する独特な自意識は、境界性パーソナリティー障害の人にのみ限ったものではなくなったのではないか。“空気を読んで”、いつも他人の目を気にしながら生きつつも、「自分らしさを求めなければ」と特別であることを求めているいまどきの若者は、多かれ少なかれ誰もが太宰的だと言えるかもしれない。また、客観的には恵まれているはずなのに、「何かが足りない」といつも軽い渇望感を抱えているのも、今ではどんな若者にもあたりまえに見られる現象だ。
そう考えると、太宰は100年ほど生まれるのが早すぎた“平凡な若者”ということかもしれない。いや、「平凡」などと言われるのが、太宰にとってはいちばんの屈辱なのであろうか。多くの読者に「わかるわかる」と共感されるのはうれしいのかそうでないのか、太宰自身に聞いてみたいような気がする。