「現代のベートーベン」とまで言われ、五木寛之氏をして「天才」と言わしめた佐村河内守氏のこの騒動を、連日メディアは大きく伝えている。たしかにここまでウソをウソで塗り固めた人生だと、怒りを通り越してあきれ、しまいには笑いたくなってしまう。
実は私も昨年、「HIROSHIMA」と名づけられた交響曲(これも真の作曲者は広島や原爆をイメージして作ったものではなかったことが発覚したが)のコンサートに出かけた。たいへんに重厚だが、何せ長く、はっきりしたメロディーがあるわけでもないので、聴きやすいとは到底、言えない。私の席の周囲でもつい居眠りしている人がちらほら見られた。
コンサートのクライマックスは、なんと言っても、演奏が終わり佐村河内氏自身が登場するところだ。指揮者の手招きに応じて客席の最後部から歩み出てステージに上がる佐村河内氏は、聴覚だけではなく全身にいろいろな病があるとかで、サングラスをかけ両腕に包帯を巻き、杖をついている。何度も客席に向かって頭を下げる佐村河内氏に観客は総立ちとなり、先ほどまで居眠りしていた人も涙を流しながら拍手していた。
私も心からの拍手を送ったひとりなのだが、「あの人はホンモノか」という問題とは別に、やや複雑な思いを抱いてしまった。こうして明らかに作品よりヒトに注目が集まってしまうというのは、はたして健全な芸術のあり方なのか、ということだ。
テレビ制作やCD制作に携わる知人らは、口をそろえて「今や悲劇のライフストーリーを持っている人しか注目を集められない」と言う。ただ演奏がうまい、ただトークが巧みというだけでは埋もれてしまい、「難病を乗り越えた」とか「家族が天災の犠牲に」といった物語がないと、誰も注目してくれないのだそうだ。「アーティスト自身は私生活を披露するのは不本意であっても、それがあなたの実力に目を向けさせるきっかけになれば、と説得する」と教えてくれたディレクターもいた。
佐村河内氏はそういったいまのアート業界やマスコミの状況をよく知っていて、それを逆手に取って自分のキャラクターを作り上げた。もしかすると、実際にちょっとしたアクシデントが起きたとき、周囲からの同情や注目度がぐっと上がるという経験をして、「これだ」と気づいてしまったのかもしれない。
会ったこともない人に診断をつけるのは許されないことだが、あえて言うなら、このように偽りを重ねても注目されたいと執着することを、「演技性パーソナリティ障害」と呼ぶことがある。こういう傾向のある人たちは、絶えず注目を集めるために虚言を繰り返し、芝居がかった態度や誇張した言動を用い続ける。しかも、一見してすぐに「この人はすごい」と思ってもらうために、過激なファッションを好んだり、ニセの松葉杖、車椅子などを使用することがある。「そんなウソの生活を続けたらさぞ疲れるのではないか」と思うかもしれないが、彼らは逆に注目を浴びない生活のほうが大きなストレスとなるのだ。そのためには日常生活の多少の不自由や痛みさえいとわない。
そういう意味では、佐村河内氏の物語は、「目立ちたい」という本人と「もっと感動させてもらいたい」と感動の刺激を欲する人びとやマスコミが、共同で作り上げたものともいえる。そのことをきちんと理解しなければ、「許せない」と佐村河内氏を一方的に責め立てても、また同じようなケースが繰り返されないとも限らない。