「経済問題」などという言い方をすると、どうも七面倒くさい感じになって腰が引けてしまいますが、実をいえば経済活動はあくまでも人間の営みです。何しろ、経済活動を営む生き物は人間しかいないのですから、これほど人間密着的なテーマはないわけです。それが七面倒くさくなってしまうのは、それを語る人々が人間らしい言葉と人間らしい視点を忘れてしまっているからでしょう。
小難しい言い方をしないと、科学的に聞こえない。ありがたがってもらえない。そんなコンプレックスが、経済の語り手たちを妙にギクシャクした口調へと追いやって来た面があると思います。
数字がたくさん出て来ないと科学じゃない。方程式が解けないと経済はわからない。いつのころからか、経済を語る人々がそうした思い込みに振り回されるようになってしまった。もちろん、数字も方程式も重要な分析の道具です。上手に使いこなせるにこしたことはありません。ですが、最も重要なことは、そうした道具を使って経済ドラマをどう語り、経済をどう謎解きしていくかです。
というわけなのですが、さらにもう一息、経済を語るとはどういうことかについて、お話しを進めさせて頂ければと思います。
私はエコノミストです。そもそも、エコノミストという言い方に対応したぴったりの日本語がないのもおかしな話ですが、それはひとまずさておき、エコノミストには大切なものが二つある。私は常々そう考えて来ました。それらは、「腕」と「声」です。
まず、「腕」について。ある時、かの故ケネディ大統領が次のようにいったそうです。「私は片腕のエコノミストに会いたい」。エコノミストは、腕が一本しかないことが望ましいというのです。
ケネディ氏は、なぜ片腕のエコノミストに会いたがったのか。それは、彼に向かってエコノミストたちがさんざん「一方で・他方で」を乱発したからです。右手を差し出して「一方ではこれこれ」と理路整然と語る。それが終わると、今度は、やおら左手を差し出して「他方ではこれこれ」とまた理路整然と語り出す。
要するに、あれもこれもで、本当のところはどっちなのかがわからない。だから、「一方・他方」が出来ないように、一本腕であって欲しいというわけです。これは誠にもっともな注文だと思います。バランス感覚をもつことは重要ですが、自分が何をどう考えているかをすっぱりいえないようでは、経済問題の謎解きは出来ません。確かな一本の腕。それがエコノミストには貴重品です。
二番目の「声」に進みます。エコノミストが発するべき声とはどんな声か。それは「荒野で叫ぶ声」だと私は思います。「荒野で叫ぶ声」という言い方は、聖書の中に出て来ます。洗礼者聖ヨハネという人の役割について語られた言葉で、要するに、社会の外側、つまり荒野にいて、そこから、世の中のゆがみや問題点について警告を発する人、というニュアンスの言い方です。私は、エコノミストの役割がまさにこれだと思うのです。政治家や経営者や官僚たちとは一線を画し、その世界の外側から状況を注視し、警告を発する。その役割に忠実でなければ、エコノミストとしての責務を果たしているとはいえないと思うのです。
しっかりした一本の腕と、力強い荒野の声をもって、経済の謎解きに挑んで行きたいと思います。お付き合い頂ければ誠に幸いです。どうぞごひいきに!