実をいえば、筆者の職場であるビジネススクールの世界でも、この戦略という言葉はよく使われます。「経営戦略論」というのはビジネススクールの基幹科目の一つですし、人事戦略とか、戦略的企業再生というような言い方もします。その意味では、商売柄、あまり戦略という言葉の悪口を言ってはいけないのかもしれません。ですが、そうはいっても、やはりこの「気になる感」から目をそむけるわけにはいきません。
なぜこの言葉が気掛かりなのか。そこには、どうしても一定の物騒さが伴うからです。「戦略」を広辞苑で引けば、次の通りです。「各種の戦闘を総合し、戦争を全局的に運用する方法。転じて、政治社会運動などで主要な敵とそれに対応すべき味方の配置を定めることをいう」
要は戦の仕方を語る用語なわけです。したがって、おのずと敵と味方の間にはっきり線を引くことになる。誰が敵で誰が味方か。それを見極めるところから話が始まる。さらにいえば、誰かを敵に回すことが前提になっている。いまどき、こんな言葉がはやっていいのか。そこが気になるのです。
誰が敵かを見定めて、その相手に勝利するための陣容を整える。それが戦略です。そんな身構えでお互いに対峙(たいじ)していたら、そのこと自体が摩擦と衝突の種となってしまう。あまり戦略的にものを考えようとし過ぎると、どうもロクなことはないのではないか、そう思えてなりません。
ところが、ちまたではむしろ戦略思考の欠如を嘆く風潮が前面に出る今日このごろです。資源確保のために、政府はもっと戦略的に立ち回れ。食糧安全保障に関する戦略は、どうした。新幹線も原子力発電所も、世界の大型インフラ開発案件を戦略的に受注せよ。そのために官民一体で励むべし。こうした危機意識が、しきりに威勢よく語られる世の中になっています。
危機意識が募るのはわかります。中国との間で、尖閣諸島沖船舶衝突事件が発生しました。北方領土に、改めてモーションをかけるロシアの動きも気になります。北朝鮮のそれこそ戦略的世代交代も不気味です。そんな中で、国家としての権益確保を強く求めたくなるのは、まずは、人情でしょう。
ですが、それにしても、「国家プロジェクト」とか、「官民挙げて」という類の言い方がむやみに飛び交う世相には、やっぱり一抹の怖さを感じます。この有り様には、どうも第一次世界大戦以前の世界を思わせるものがあります。あの時代は、植民地確保を巡る列強間の分捕り合戦の時代でした。まさか、そんな状態に逆戻りすることはないとは思いたいところです。ですが、およそ人間がやることについては、「まさか」で片づける発想は危険です。良きにつけ悪しきにつけ、人類の歴史というものは、「まさか」の実現の連続だとさえ言えるでしょう。「そんなこと起こるはずがない」と言いたくなった時こそ、ご用心。
国家が戦略的にビジネスに乗り出すとは、どういうことか? それは結局のところ、囲い込みと一人占めの一番乗り競争をもたらします。そして、その早い者勝ち争いによって、世界が分断されていくことを意味します。グローバル時代だというのに、こんなことでいいのか? グローバル時代におけるビジネスの在り方を議論しながら、戦略論を唱えることは少々おかしくはないか? ビジネススクールでも、この辺りをしっかり議論する必要がありそうに思います。……などと、あんまり言うとしかられるかな?