経緯はご存じの通りです。原発の運転再開に向けて、経済産業省が佐賀県民に対する説明会を企画しました。その実施を控えて、九州電力が関係会社などの社員に運転再開を支持する旨の電子メール投稿を依頼したという事件です。
ご丁寧なことに、投稿すべき例文まで用意するという念の入れようでした。それも、なんと六つも違うタイプの模範文が用意されていたのです。
例文の中には、息を飲むほど脅迫じみたものがあります。いわく、「電力が不足していては、今までのような文化的生活が営めないですし、夏の「熱中症」も大変に心配であります。犠牲になるのは、弱者である子供や年配者の方であり、そのような事態を防ぐためにも、原子力の運転再開は絶対に必要であると思います。」あたかも、原発の運転が再開されなければ、かわいい我が子や年老いた大切な両親に身の危険が及ぶのだといわんばかりです。この言い方には、ひたすらあ然とするほかはありません。
前段の「今までのような文化的生活」の言い方には、別の意味であ然の感を免れません。文化的生活とは一体何か。オール電化なら、それが至高の文化性をもたらすというのか。巧まざる低品位ユーモアが実に笑止千万です。
ただ、「今までのような文化的生活」は笑える駄文ですが、六つの例文が提示している原発支持の論理には、それなりにもっともな面もあります。経済活動を順調に回していくには、原発によるエネルギー供給が不可欠。代替エネルギーの開発には時間とコストがかかる。それらが生み出すパワーだけで電力の供給水準を維持することは難しい……等々。いずれも、決して暴論だとはいえません。
それだけに、なぜこれらのことを今回の説明会の場なり、他の機会を設けてなり、電力会社の主張・信念として、素直に市民の前で語ることを考えなかったのかと思うところです。やらせメールなどという姑息(こそく)な手段に訴えれば、いかに内容的に正当性のある議論でも、二度と再び誰からもまともに受け止めてはもらえなくなります。そのことに思いが及ばないまま、良く出来た例文集をつくることに注力してしまう。そこにある精神性の欠落が何とも恐ろしい。
例文集を読んで思うことが、もう一つあります。それは、上記の迷文、「今までのような文化的生活」の中に出てくる「今まで」という言葉を巡ってのことです。どうも、この例文集は、何はともあれ、そして何が何でも、「今まで」と同じ状態を維持しなければいけないという発想によって貫かれているように思います。
例文その1にいわく、「日本全体のことを考え、九州を含む西日本が元気を出して、生産や経済を回さなければならない中、電力不足は絶対にあってはならないことです。」これも、もっともではあります。ですが、生産や経済をどの程度のレベルで回すかは、人々の裁量次第です。そもそも、問題は電力不足というよりは生産超過にあり、無理をしての経済の「回し過ぎ」にあるのかもしれません。
2008年のリーマン・ショックが起きた時、我々はそれまでの経済活動の水準が金融の大暴走によっていかに膨らみ過ぎていたかを痛感したはずです。膨らみ過ぎた経済規模を基準にしている限り、かりに原発問題が無くても、電力不足は常に問題であり続けるでしょう。電力不足もさりながら、電力需要をむやみに押し上げる成長への執着に、実をいえば問題がある。その側面があると思います。この問題の解消策について例文集をつくれといわれたら、やらせメール制作班はどのような解答を出してくるのでしょうか。