あの時に思いを馳せる中で、頭に浮かんだ言葉が二つあります。それは、一に多様性、そして二に包摂性です。包摂性というのは、包み込むとか、抱きとめる度量の広さと懐の深さを指す言葉です。包容力といいかえてもいいでしょう。多様性については、説明を要しませんね。
あの東日本大震災に見舞われた時、我々はこの二つの概念の貴重さを痛感させられたと思います。震災直後、我々の買い溜め・買い占め行動のおかげで、大手スーパーやコンビニの棚から物が消え失せていきました。その中で、我々を救ってくれたのが、地域の零細個人商店群でした。
「まだやってるの」。そんな感じで彼らの店頭を横目でみながら、その前を素通りしていく。それが我々の日常でした。そんなじゃけんな扱いに耐えながら、営業を続けて来た彼ら。そのおかげで、あの時の我らは九死に一生を得たのでした。
大きなものと小さなもの。全国チェーンとローカル・ショップ。これらの相異なる様々なものが共存していればこそ、いざという時に何とかなる。これが多様性のありがたみです。その意味で、多様性はまさに命綱です。多様性と逆行する均一化が進み過ぎると、一朝有事の救いの神がいなくなってしまいます。
多様なるものを包摂出来ない社会は、不寛容社会です。排除の社会であり、引きこもりの社会です。そのような社会の中から、新しいものは生まれて来ません。そのような社会に、自己再生能力は培われません。そのような社会は、滅びゆく社会です。
ところが、今の世の中、どうも多様性は忌避され、包摂性は低下する傾向にあるようにみえます。
とりわけ、震災に絡んだ各種の排斥行動が気掛かりです。放射性物質への不安から、がれきを受け入れる自治体は少ない。旅館やホテルが福島県民の宿泊予約を拒否した事例もある。悲しいかな、排斥意識は子供の世界にも浸透しているようです。福島県から避難してきた子たちが、「放射能がうつる」とからかわれるのだと報じられています。
震災にかかわる問題とは別の領域でも、均一性指向と排除的傾向はみられます。
例えば、外国人看護師の受け入れに関して、日本は明らかに高過ぎるハードルを設定しています。思想・信条の自由を制約しようとするかの政治・行政行動も見受けられるようになりました。成果主義的な切り捨ても、包摂性とは明らかに逆行するベクトルです。
それに引き替え、江戸の昔の庶民の皆さんは、とても多様で、とても包摂性に富んでいたと思います。江戸の長屋には、なかなかの教養人もいれば、与太郎も住んでいました。与太郎だからといって、排除されることはなかったのです。偉い先生が特別扱いされることもありませんでした。全く異なるタイプの多様な顔ぶれが、お互いに受け入れあって共同体を構成していたのです。
多様性を縦軸に、包摂性を横軸にとった座標平面をつくってみましょう。その中で、一番居心地のいい場所はどこでしょうか。
明らかに、それは多様性が高く、包摂性も高い象限です。この場所を大事にしたい。この場所をみんなで守り抜いていければいいと思います。間違っても、正反対の場所、つまり、多様性も包摂性も低い象限に転落してはいけません。震災後1年の日本がその暗黒の場所に引きずり込まれないよう、心していかなければいけません。
象限
象限(しょうげん)は座標平面の縦軸、横軸で分けられる四つの部分の一つ一つのこと。