とっても気になる新聞記事が目に留まりました。日本経済新聞が掲げた連載企画「生産性考」シリーズの第4回目(2018年5月4日付朝刊)が教育現場の状況を取り上げていました。
内容的には、日本の学校が生徒たちに押し付けるしゃくし定規なルールや、画一性を問題視しています。そこにまったく異論はありません。若者が、伸び伸びと生き生きと、そして目一杯、創造性を花開かせる。それが教育に与えられた使命ですよね。元々、奇麗な茶髪に生まれた生徒さんに、「黒染めか、退学か」などと迫る。そんな話にならない校則を糾弾する。上記の記事のこの姿勢には、喝采を送りたいと思います。
ですが、このテーマが、「生産性考」という枠の中で取り上げられていいものでしょうか。この点が、どうしても奇異に感じられるのです。この記事の中には「学力が高い国が生産性が高いとは限らない」と題する図が示されていました。こんな問題が提起されることに、何とも強い違和感を覚えます。
我々は、自分たちの生産性を高めるために教育を受けるのでしょうか。生産性を高めることに寄与しない教育は、子どもたちにいくら高い学力を提供することが出来ても、意味ある教育ではないのでしょうか。生産性の向上を生み出さない教育は、教育ではないということですか?
筆者には、自分の生産性を高めるために学校通いをしていたという認識はありません。今日の先生方は、学生さんや生徒さんたちの生産性を高めることを目標に、教育に携わられているのでしょうか。そんなことはないはずです。皆さん、若者たちのみずみずしい知性を開花させることに注力されているに違いありません。ところが、ひょっとすると、今の先生方は、若者たちの生産性向上に寄与することが出来なければ、教員として高い評価を得られないのでしょうか。
人の髪の毛の色を、偽りの画一色に変えさせる。そんな教育は、最低よりもさらに愚劣さ極まる教育だとしか、言いようがありません。そんな教育は、変えなければいけません。これは、言うまでもないことです。ですが、そのような変革が必要なのは、生産性の向上に資するためではありません。ここが混同されてはいけません。そもそも、こんな混同と履き違えの過ちを犯さないためにこそ、教育があるわけでしょう。
皆さんは、フランスの文豪、アレクサンドル・デュマの大作、「モンテ・クリスト伯」をご存じでしょうか。この物語の主人公、モンテ・クリスト伯爵は、かつて無垢な若者、エドモン・ダンテスでした。彼は、仲間にだまされて投獄されてしまう。その時、仲間の裏切りを彼のために解明してれたのが、隣の牢獄にいたファリア神父でした。ダンテス青年は、神父様の謎解き力に感服します。そして、その謎解き力の源となった知性と教養に強い憧憬(しょうけい)を抱きます。
知性と教養は、このような時のためにあるのです。生産性を上げるためにあるわけではありません。