どんな「なぐさめ」が必要?
みなさん、こんにちは。今回は内村鑑三がどんなふうに〝絶望〟に立ち向かったのか、一緒に考えていきたいと思います。
ヒントになりそうなことばを先に見ておきましょう。内村さんは「なぐさめ」を、二つに分けているんです。
①は、「なぐさめ」=「凪ぐ」という日本語のイメージでとらえる見方です。「凪」とは、風が吹いていない、おだやかな水面の様子を言い表したことばです。「凪ぐ」は「和ぐ」ともつながっていますね。心がなごやかに落ち着いている感じを想像してください。
②は、英語のイメージでとらえる見方です。日本語の「なぐさめ」を英語に訳すと、comfort。動詞としてcomfortを使う場合には、言葉や行動によって誰かの力になる、誰かを苦しみから解放する、という積極的な印象が強くなるのです。ことばのもとをたどれば、comfortには、力(fort)と共にある(com)、という感覚がこめられているのですね。ここが、「凪」のようなおだやかな心の状態を目指そうとする①の「なぐさめ」との違いだと思います。
内村さんは①の例として、自然や音楽がわたしたちに与える「なぐさめ」を挙げています。ですが、内村さんは②の「なぐさめ」の方がより大切だと考えて、こんなふうに言うのです。自然や音楽が作り出す心の「凪」は、その場かぎりのものではないですか? 〝絶望〟してしまうのは、苦しみに立ち向かうための力が自分には足りないと感じるからでしょう。そういう場合に必要なのは、力と共にあると実感できる、②の「なぐさめ」なんですよ、って。※1
みなさんは、この区別を聞いてどう感じますか? そうかもしれないな、とわたしは思います。前回、わたしの〝絶望〟について話しましたね。わたしも音楽に「なぐさめ」られたこともありましたし、優しい言葉で「なぐさめ」てくれた人もいました。ありがたいことですが、でも、そうした「なぐさめ」によってかえって無力感が大きくなることもありました。
内村さんから深い影響を受けた作家に正宗白鳥という人がいて、つぎのようなことばを残しています。内村さんはキリスト教を信じ、それを本に書いたけれど、ほんとうに「なぐさめ」られていたのだろうかと疑っているんです。
「それらの文章は感傷的の述懐であって、作者自身それによって徹底的に慰められたり、安心を得たりしていたのではなかったのではないか。慰められたつもり、安心を得たつもりであっただけのように、私には思われる。我執の人、内村鑑三は最後までそうではなかったか」※2
「我執」というのは、自分へのこだわり、ということですね。「我執」があったから、内村さんは「なぐさめ」を得られなかっただろう、と考えているのです。たしかに、内村さんはいつもこのこだわりを大切にしていました。でも、どうでしょうか。正宗さんは①の「なぐさめ」だけを考えて、内村さんが大切にしていた②の「なぐさめ」を見落としていたのではないかと、わたしは思います。
自分へのこだわりを捨てて、自分のことなんてそれほど大事ではないと思えれば、たしかに「凪」の状態になりやすそうです。つまり①の「なぐさめ」ですね。でも、それだとかえって、②の「なぐさめ」は得られなくなってしまうのではないでしょうか。なぜなら、力と共にある、力に支えられている、と感じられるためには、その力を受けとめる自分というものが、まずは必要だからです。
日本には①の「なぐさめ」を得ようとする文化の伝統がありました。たとえば、鴨長明が書いた『方丈記』をはじめとして、〝随筆〟と呼ばれるジャンルの文章には①の「なぐさめ」にかんする知恵が含まれていますね。でも、②はほとんどなかったのです。内村さんはそれを求めて、イチから自力で考えなければなりませんでした。むずかしい課題ですから、どうしても迷ったり悩んだりすることになりますよね。正宗さんはそんな内村さんの様子を見て、全然「なぐさめ」られていないと感じたのかもしれません。
そういう内村さんがたどりついたのが、〝物語〟を語る、という方法でした。力と共にある人間の〝物語〟です。それは、自分自身の〝物語〟であることもあれば、『聖書』の登場人物に託された〝物語〟であることもありました。
「なぐさめ」の物語
内村さんが書いた『余は如何にして基督信徒となりし乎』という本があります。題名のとおり、内村さんがどんなふうにキリスト教を信じてきたかが、いろいろなエピソードをまじえて語られています。
内村さんは北海道の札幌農学校で学生時代を過ごしました。当時の札幌はまだ人口も建物も少ない場所でした。そのような土地で仲間と生活しながらキリスト教を学び、教会を手作りしたのです。そこでの日々はまさに〝青春〟という感じで、読んでいてワクワクします。※3
20歳で学校を卒業した内村さんは、北海道に残り、学校で研究した漁業の知識を活かして働きはじめました。でも、しばらくして辞めてしまいます。体調不良が理由でしたが、もっとキリスト教にかかわる仕事がしたいという焦りもあったのかもしれません。そして、1884年11月に、突然アメリカに旅立ちます。23歳の時でした。
内村さんはその年の3月に浅田タケさんと結婚し、10月には早くも別居しています。内村さんの生涯を研究した人の多くが、結婚生活がうまくいかず、自分自身に〝絶望〟したことが、この突然の行動の理由だったと考えています。
アメリカへの旅立ちは、「なぐさめ」を求める〝物語〟がはじまる、大事なポイントです。でもこの決断について、内村さんは具体的には書いていません。ただこんなふうに言っているだけです。
ある時、自分の心のなかに、キリスト教の活動や科学実験によっては満たされない、空虚な場所があることに気づいた(空虚というのは、中身がなく、ぼんやりしていてむなしい、という意味です)。この空虚を埋めなければと思い、じっとしていられずアメリカへ出発した、って。遠い世界に向けて旅立つ。知らない場所で一人で生きてみる。それしか思い浮かばなかった、ということですね。※4
※1
『ヨブ記講演』岩波文庫 118頁
※2
正宗白鳥『内村鑑三・我が生涯と文学』講談社文芸文庫 13頁(一部表記をあらためた)
※3
現代の言葉づかいであらためて訳された読みやすい文庫本(『ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか』河野純治訳、光文社古典新訳文庫)も出ていますので、手に取ってみてください。
※4
『余は如何にして基督信徒となりし乎』鈴木俊郎訳、岩波文庫 93-94頁
※5
ここからは、内村さんの『ヨブ記講演』という本を参考にしています。「ヨブ記」は、『旧約聖書』のなかに含まれています。つまり、この世界にキリストがあらわれる以前に語られた〝物語〟なのです。キリスト教を信じるひとが、キリストがいなかった時代の書物を大事にするのは少し不思議ですが、その理由の説明は省略します。とりあえず、「ヨブ記」が、キリスト教徒かどうかにかかわりなく、たくさんの人々に深い影響を与えてきた普遍的な〝物語〟だということを、知っておいてください。
内村さんは「不敬事件」の後、「ヨブ記」を読もうとしたのですが、途中で辛くなり、読むのを諦めてしまったそうです。それくらい衝撃的な〝物語〟なのです。ちなみに『ヨブ記講演』は、「不敬事件」のおよそ30年後におこなった講義を本にしたものです。
※6
『旧約聖書 ヨブ記』関根正雄訳、岩波文庫 37頁
※7
『ヨブ記講演』130頁(一部表記をあらためた)