アメリカ滞在で、内村さんにとって重要な出来事だったとわたしが思うのは、キリストとの出会いです。もちろん、キリスト(もともとの名前はイエス)ははるか昔に死んでいますから、直接会ったわけではありません。キリストの〝物語〟である『新約聖書』を読んで、はじめて心から共感したという意味です。神の子であるはずなのに、バカにされ、仲間にも見捨てられ、犯罪者として十字架に縛り付けられて、悲痛な叫びを上げながら孤独に死んだ人。そんなキリストの〝絶望〟に心を揺さぶられて、自分の〝絶望〟を重ね合わせたのでしょう。
これは大きな変化でした。16歳で札幌農学校に入学した時からキリスト教を信仰してきたのですが、この時までの内村さんにとって、キリスト教は仲間と切磋琢磨しながらより良い道徳的な人間になるための道具だったのです。でも、アメリカで、キリストの〝絶望〟が内村さんにとっていちばん大切な問題になりました。それは、集団のなかの一人としてではなく、〈個〉としてキリストその人に向き合うということです。自分も〝絶望〟していたからこそ、キリスト教の新しい面が見えてきたのですね。
当時アメリカには、夢中でキリスト教を信仰する人たちがいました。この熱狂的な流行は「リバイバル」と呼ばれています。内村さんはそれをさめた目で見ていました。集団で興奮し、現実の辛さを忘れることは、ほんとうの「なぐさめ」ではないと感じたのです。さらに内村さんは、障がいのある子どもたちが生活する施設で働きはじめます。ですが、本の中で、その行動を自分勝手だったと批判しています。心の空虚から逃れたくて人助けをしていた、というのです。
このような試行錯誤のすえに、内村さんは大きなギモンをいだきます。いくらあれこれ考えたり行動したりしても、どんなに道徳的に生きても、「なぐさめ」は得られないんじゃないか、って。それなら「なぐさめ」ってなんだろう。内村さんはふと思いました。キリストは神からこの世界に遣わされたのに、なんの「なぐさめ」も与えられずに死んだ。この事実を、心の中でしずかに思い起こす時、自分は力と共にある(comfort)と感じられる。その力は自分の力ではなく、自分の外からやって来る不思議な力だ。これがほんとの「なぐさめ」なんだ、って。
内村さんを、その後さらなる〝絶望〟が襲います。今度くわしく説明しますが、「不敬事件」という出来事に巻き込まれて仕事を失ったのです。しかも、帰国後に結婚した妻のかずさんが、事件のごたごたの中で病気にかかり、亡くなってしまいます。1891年、30歳の時でした。『余は如何にして基督信徒となりし乎』が書かれたのはその2年後です。
みなさんはこう思うかもしれません。キリストの死が「なぐさめ」だなんて、〝絶望〟している時には、まさかそんなふうには考えられないでしょ、ある程度時間が経ったからそう言えたんでしょ、って。たしかにそうですよね。内村さんがこの本で書いたことは事実そのものではありません。それは事実をもとにしていますが、あくまでも、過去を振り返りながら作られた〝物語〟でした。
さて、わたしからみなさんにお伝えしたいのは、こんなことです。まず、自分の〝絶望〟の意味を知るためには、〝物語〟を作り、語らなければならないということ。多少の噓や無理がそこにまじってしまうかもしれませんが、どうしても自分なりの〝物語〟が必要なのです。そして、それにはとても長い時間がかかるということ。
内村さんは、誰よりも深く〝絶望〟し、誰よりも長い時間をかけて自分の〝物語〟を語りました。そんな内村さんの歩みに寄り添い、支えたのが、キリストの死という〝物語〟だったのです。
みなさんのなかには、〝絶望〟して、死にたいと思っているが人がいるかもしれません。わたしはあなたに、生きつづけてくださいとは言えません。でも、ずっと心に空虚を感じ、死にたいと思っているのに、なぜかそれでも生きている自分を発見して、それを不思議に思う瞬間が、この先あなたに訪れるかもしれません。その時には、立ちどまって、過去のさまざまな出来事をゆっくり思い返してみてほしいのです。きっとどこかに、あなたの〝物語〟の芽が見つかるはずです。そしてその時、参考になるほかの誰かの〝物語〟があなたのそばにあれば、なお良いですね。内村さんにとって『聖書』がそうであったように。
〝絶望〟の先にある希望
今回は「ヨブ記」を取り上げると約束していたのに、つい遅くなってしまいました。「ヨブ記」は、キリストの〝物語〟とならんで、内村さんが大切にしていた〝物語〟でした。もちろん、テーマは〝絶望〟です。※5
主人公ヨブは、熱心なユダヤ教徒で、神を尊敬し、罪を犯さず、宗教上のさまざまな決まりを守ってまじめに暮らしていました。家族もいて、周囲から信頼されていましたし、財産もありました。とても幸せだったのです。ヨブはただしい人(義人)だから、神から愛されているのだと誰もが考えていました。ですが突然、大きな不幸が立て続けに降りかかって、ヨブはすべてを失ってしまいます。ヨブ自身は、耐えられないほど重い皮膚病にかかります。
かしこい友人たちがやって来て、君にも悪いところがあったんじゃないの、とたずねます。でも、ほんとうにただしく生きてきたのだから、ヨブは困ってしまいますよね。そこで、そんなことをたずねる友人だけではなく、神を疑ってしまいそうになります。どんなふうに生きても、しょせんは人間の基準でしかなくて、神には関係がないんじゃないか。それならこれまでの自分の行動は、全部無意味だったんじゃないか。そう感じてしまう気持はわかりますよね。
ヨブはこう言います。「大水が突然人の生命を奪っても/彼は罪なき者の困窮を笑っている」※6 神は、洪水によってなんの罪もない人の命が奪われる様子を、笑いながら見ている、という意味です。読んでいるこちらの心まで切り裂かれる、ものすごい叫びですね。この時のヨブのすがたは、死のまぎわに「神はなぜ自分を見捨てるのか?」と叫んだキリストのすがたに重なります。内村さんも、このヨブの〝絶望〟のことばを何度もかみしめたのでしょう。
※1
『ヨブ記講演』岩波文庫 118頁
※2
正宗白鳥『内村鑑三・我が生涯と文学』講談社文芸文庫 13頁(一部表記をあらためた)
※3
現代の言葉づかいであらためて訳された読みやすい文庫本(『ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか』河野純治訳、光文社古典新訳文庫)も出ていますので、手に取ってみてください。
※4
『余は如何にして基督信徒となりし乎』鈴木俊郎訳、岩波文庫 93-94頁
※5
ここからは、内村さんの『ヨブ記講演』という本を参考にしています。「ヨブ記」は、『旧約聖書』のなかに含まれています。つまり、この世界にキリストがあらわれる以前に語られた〝物語〟なのです。キリスト教を信じるひとが、キリストがいなかった時代の書物を大事にするのは少し不思議ですが、その理由の説明は省略します。とりあえず、「ヨブ記」が、キリスト教徒かどうかにかかわりなく、たくさんの人々に深い影響を与えてきた普遍的な〝物語〟だということを、知っておいてください。
内村さんは「不敬事件」の後、「ヨブ記」を読もうとしたのですが、途中で辛くなり、読むのを諦めてしまったそうです。それくらい衝撃的な〝物語〟なのです。ちなみに『ヨブ記講演』は、「不敬事件」のおよそ30年後におこなった講義を本にしたものです。
※6
『旧約聖書 ヨブ記』関根正雄訳、岩波文庫 37頁
※7
『ヨブ記講演』130頁(一部表記をあらためた)