なにが良くて、なにが悪いかは、国が決めるから、個人は考えなくていい。教育勅語はそのような宣言だった、と丸山さんは分析しているのです。
このことは、ひと握りのエリートだけの問題ではありません。日本中に、新聞で事件を知って、内村さんを責め立てた人たちがいました。彼らは、内村さんの〝自由〟なんてどうでもいい、という意思を示したことになりますよね。でも、おかしいと思いませんか。自分の〝自由〟と他人の〝自由〟が、おたがいを支え合っていることは、ちょっと想像すればわかるはずなのに。自分の〝自由〟が本気で大切なら、他人の〝自由〟も丁寧に扱うのではないでしょうか。つまり、多くの日本人がこの時、内村さんの〝自由〟だけでなく、自分の〝自由〟まで捨ててしまったのではないでしょうか。わたしはそう感じます。
前回紹介した、「浅い日本人」という文章を覚えていますか? 日本人は、ものすごい勢いで怒るけれど、すぐ忘れてしまう。浅い怒りなんだ。そうじゃなくて、静かで長続きするのが、深い、ホンモノの怒りなんだよ。内村さんはそう書いていましたね。
ふつうは、「怒り」という言葉から、ぱっと燃え上がる感情をイメージしますよね。わたしは、そのような激しい心の動きも大事だと思います。ただ、もっと大切なのは、激しい感情の炎が消えた後も、問題や出来事について考え続ける、粘り強さではないでしょうか。たぶん内村さんは、すぐに忘れず、粘り強く考える態度を、静かな深い怒り、と表現したのだと思います。
深く怒るということは、深く考え続ける、ということです。
〝平等〟のことを思い出してください。もし、〝平等〟を目指すエネルギーが浅い怒りだけだったら、どうなるでしょう。〝みんな同じ〟状態で満足してしまうのではないでしょうか。〝自由〟と両立する〝平等〟を実現するには、色んな人たちと話し合いながら複雑な問題に立ち向かわないといけませんよね。ゆっくりと一歩ずつ、粘り強く考え続ける必要があるのです。つまり、深い怒りのエネルギーが必要なんです。
浅い怒りは、すぐにその場で、態度や行動としてあらわれます。では、深い怒りが、静かに長く続く場所は、どこにあるのでしょうか。それはやはり、個人の心の中だと思います。浅い怒りにつき動かされて内村さんの〝自由〟を奪った人々は、自分の心の〝自由〟も捨ててしまいました。それは、深い怒りを捨てた、ということでもあります。そのせいで、明治の希望の光だった〝平等〟は、浅い〝平等〟にかわってしまったのかもしれません。
内村さんが追い求めた〝平等〟
先生の仕事をやめた内村さんは、新聞記者として働いたり、雑誌の出版活動を行いました。ジャーナリストになったのですね。しかし、人気雑誌だった『東京独立雑誌』を1900(明治33)年に廃刊し、かわりに『聖書之研究』という雑誌を創刊します。世間が注目するニュースを取り上げるのではなく、『聖書』を研究することが目的でした。深い怒りを大事にしながら〝自由〟や〝平等〟を考えていこう。雑誌にはそんな思いがこめられていました。鍵になるのはやはり『新約聖書』の主人公イエスです。
内村さんはキリスト教について、キリストっていうのはナザレのイエスなんだよ、とよく語っていました。さいごにその意味を見届けましょう。
イエスは、生まれた時につけられた名前です。キリストというのは、救い主(世界を救う者)という意味です。イエスをあがめる人たちがイエスをキリストと呼んだことから、キリスト教という宗教ができたわけです。
それにたいして、ナザレはイエスの出身地、どこにでもある小さな町の名前です。日本でも、名前の前に地名をつけて人を呼ぶことがありますね。わたしも時々、お年寄りからサワマのヨシミさんと呼ばれたりします(わたしは沢間という集落に住んでいるんです)。ナザレのイエスも、それに似たノリです。
キリストと呼ぶと、イエスを偉くて遠い存在だと感じるでしょう。でも、ナザレのイエスさんと呼ばれるふつうの人でもあったのです。みんなと気軽に喋ったり、食事したりしていた。バカにされたり、いじめられたり、辛い経験もした。そのことを忘れちゃいけない、と内村さんは言いたかったのでしょう。
内村さんはこう書いています。
イエスは、貴族でもなく、お金持ちでもなく、学者でもなかった。イエスはただの人だった。だからわたしたちも、ただの人にならなくちゃいけないんだ。※4
さて、そんなイエスが人々に語り、教えたことでとくに大事なのが、つぎの二つの事柄です。
①すべてを尽して、神を愛せ / ②自分を愛するように、隣人を愛せ
内村さんによると、②は、あくまでも①の一部分です。神を愛する気持ちがあって、それが隣人を愛する気持につながる、というわけです。
でも、現実には、①はかならず②としてあらわれると内村さんは言います。この世では、隣人への愛が、神への愛をはかる基準になるということです。その上で、内村さんは②について、こう注意しています。これは自分を捨てて隣人を愛せ、という意味ではないんだよ。自分を大切にするのと同じように隣人を大切にしなさいという意味だよ、って。それはつまり、自分の〝自由〟も、隣人の〝自由〟も、同じくらいきちんと尊重しなさいよ、一生懸命、自他の〝自由〟を大事にしなさいよ、ということだとわたしは思います。そして、そのような〝自由〟の尊重の根っこには、じつは神にたいするあなたの全力の愛があるはずだよ、と内村さんは言いたかったのだと思います。※5
※1
大日本帝国憲法には、天皇が国の元首として、自分の判断で様々なことを決定できると定められていました。権力が天皇に集中するように、国が作られていたのです。現在の日本の憲法と、考え方が大きく異なるところです。
※2
個人の内面を重視するという特徴は、キリスト教の中の、プロテスタントという宗派にとくに顕著です。
※3
丸山眞男「超国家主義の論理と心理」(『丸山眞男セレクション』平凡社ライブラリー)63頁
※4
「キリスト伝研究(ガリラヤの道)」(『内村鑑三全集』27巻、岩波書店)390頁
※5
「十字架の道」(『内村鑑三全集』29巻)125ー126頁
※6
同前 162頁
※7
「キリスト伝研究(ガリラヤの道)」(『内村鑑三全集』27巻)284頁
※8
『キリスト教問答』講談社学術文庫 230頁
※9
「エレミヤ伝研究」(『内村鑑三全集』29巻)365頁
原文では、こう書かれています。「我は浜の真砂の一粒ではない。我は真の個人であり我に代りて我が役目を果すべき者は他にない」