ところで、隣人ってどんな人でしょう。そばにいる他人。そうですよね。内村さんは隣人を、〈最微者(いとちいさきもの)〉とも呼んでいます。※6
〈最微者〉というのは、権力もなく、貧乏で、世間から注目も尊敬もされずに生きている、ただの人です。まさにイエス自身が、虐げられ、飢えていて、家もなく、着る服もない、〈最微者〉でした。だからこそ、あなたが、あなたのそばにいる〈最微者〉の話を聞き、その人を受け入れる時、その人の〝自由〟を尊重する時、あなたはイエスを受け入れ、愛したことになるんだよ。そしてまた、あなたが他人から〈最微者〉として愛されて、〝自由〟を尊重してもらった時、あなたはイエスに愛されているんだ。ただの人たちのあいだで交わされるこんな愛が、なによりも大事だ。内村さんはそう考えるのです。
〝平等〟とは、〝みんな同じ〟ではないということを、あらためて思い出しましょう。わたしとあなたが、おたがいの〝自由〟を尊重し合う。そんな関係を一つ一つ、粘り強く積み重ねる以外に、〝平等〟に近づく方法はないのですね。
イエスはある時、神の国はみなさんの「内」にあるんだよ、と言ったそうです。内村さんはこれを、「内」っていうのは、「心の内」という意味ではなく、「間」という意味だ。イエスは、神の国はみなさんの「間」にあると言ったんだと、解説しています。※7 ただの人たちの「間」、わたしとあなたの「間」に、〝自由〟と〝平等〟が実現される。その時、そこに神の国があらわれるんだよ、ということですね。
ちょっと駆け足になってしまいました。みなさんはここまでの話を聞いて、どう感じられましたか。繰り返しになりますが、〝自由〟と〝平等〟を両立させるのはとてもむずかしいですよね。なんと内村さんは、自由な人間がいるところにはどこでも奇跡が生じるとまで言っているんですよ! ※8 人間同士が〝自由〟を尊重し合い、〝平等〟な関係を結べるのは、ほんとうに奇跡なのかもしれません。みなさんが内村さんのことばを参考にして、この先の人生で奇跡を起こしてくれたら、とてもうれしいです。わたしもチャレンジします。
おしまいに、わたしが好きな内村さんの言葉を少しかみ砕いて紹介します。ゆっくり味わってください!
〈わたしは、浜辺の砂の一粒ではない。わたしは真の個人であり、わたしの代わりにわたしの役目を果たす者は、他にいない〉※9
※1
大日本帝国憲法には、天皇が国の元首として、自分の判断で様々なことを決定できると定められていました。権力が天皇に集中するように、国が作られていたのです。現在の日本の憲法と、考え方が大きく異なるところです。
※2
個人の内面を重視するという特徴は、キリスト教の中の、プロテスタントという宗派にとくに顕著です。
※3
丸山眞男「超国家主義の論理と心理」(『丸山眞男セレクション』平凡社ライブラリー)63頁
※4
「キリスト伝研究(ガリラヤの道)」(『内村鑑三全集』27巻、岩波書店)390頁
※5
「十字架の道」(『内村鑑三全集』29巻)125ー126頁
※6
同前 162頁
※7
「キリスト伝研究(ガリラヤの道)」(『内村鑑三全集』27巻)284頁
※8
『キリスト教問答』講談社学術文庫 230頁
※9
「エレミヤ伝研究」(『内村鑑三全集』29巻)365頁
原文では、こう書かれています。「我は浜の真砂の一粒ではない。我は真の個人であり我に代りて我が役目を果すべき者は他にない」