たとえば、外国に支配され、植民地として統治されている人々が、自分たちはよその国や民族に支配されたくない、自分たちのことは自分たちで決めたいと願った場合(①ですね)に、自分たちが国や民族としてひとまとまりの集団である根拠を示し、他とのちがいを際立たせようとします。その根拠として、自分たちのオリジナルな伝統や文化が見いだされるのです(②ですね)。こんなふうに①と②は連動し、支え合う関係にあります。しかし、②の、「排他的にそれを保持拡大しようとする主義」にかたより、それがふくらみすぎると、ナショナリズムは排外主義と呼ばれるものにかわっていきます。「排外」もちょっとむずかしいことばなので、こんどは手元の小さい国語辞典で意味を調べます。このように説明されていました。
外国の人や思想・事物などを、嫌って排斥すること ※2
自分たちの伝統や文化のオリジナリティや立派さを誇る感情が、自分たちと異なる伝統や文化を持つ国や人を見下し、差別する感情につながってしまう、ということでしょうか。現在の日本では、ナショナリズムということばには、この悪いイメージがぴったり貼りついています。ナショナリズムを主張する人を、ナショナリストや愛国者と呼ぶのですが、そういう人は差別的な排外主義者だ、と判断されがちなのです。
みなさんは、外国出身の人を邪魔者扱いして面白がったり、韓国や北朝鮮、中国といった近くのアジアの国々をまるで悪魔みたいにののしる、ネットの動画や雑誌の差別的な見出しを目にしたことはありませんか。国や民族の独立を大事にし、文化や伝統を誇ること自体は、良いことでも悪いことでもなく、個人の自由です。ただ、他人や他の国を差別するのが愛国者であるのなら、ナショナリズムは悪いものだと思われても仕方ありませんね。
でも考えてみれば、これってヘンな現象だと思いませんか。①と②が連動することはよくわかります。そして自分たちの独立のために一生懸命、支配者と闘っている人が、②を主張しているうちに、結果として排外的な感情を持つことも、じゅうぶん理解できます。ただ、国家としても民族としても独立しているはずの日本に、差別的な愛国者がたくさんいるというのは、なかなか理解しづらい状況ですよね。※3
このような現象が目立ってきたのは、今から20年以上前の、2000年前後です。そのことを調査した、『〈癒し〉のナショナリズム』という本があります。著者の一人である小熊英二さんは、日本の排外的なナショナリズムが生まれる背景について、こんなふうに分析しています。
現在の排外的なナショナリストは、「健全な常識」が今の社会にまったく見つけられないことへの不安から、ナショナリズムを求めているのだろう。排外的なナショナリズムは、このまま社会のなかで家族や友人といった人間関係が崩れていけば、さらに激しくなっていくだろう。 ※4
「健全なナショナリズム」とはどのようなものか、イメージしてみましょう。良い文化や伝統を保ち、将来に残すためには、世の中にある程度の余裕があって、時間がゆったり流れている必要がありますよね。ですので、ナショナリズムは、急激な社会の変化はみんなの幸せにつながらないと考えて、新しさだけを追い求めることをいましめる思想でもあるのです。
そこで、「健全な常識」が役に立ちます。もしも意見が食い違い、対立したとしても、落ち着いて話し合えれば、おたがいに譲り合えるラインがあるよね、100パーセント納得するのは無理でも、みんなが受け入れられる最大公約数は見つけられるはずだよね……。この感じが「健全な常識」だとわたしは思います。人間は、長い時間をかけて「健全な常識」をつちかい、引き継いできました。伝統や文化は、その目に見えるひとつの成果なのです。つまり、伝統や文化は、色々な立場の人たちが話し合いながら考えを深め、ゆっくり社会を変えていくための参考になる基準であるはずで、他国を見下すための道具ではないはずなのです。
わたしたちは、身近な人たちと対話し、もめたり譲ったりする経験を積み重ねることで、自分のなかにも「健全な常識」があると、徐々に感じるようになるのではないでしょうか。その感覚に根ざしたナショナリズムは、様々な考え方やものの見方が共存できる世界を目指すと思います。しかし、そのような他人との関係が少なくなってしまった社会では、「健全な常識」がどこにも見つけられない不安から、排外的なナショナリズムにすがりつく人が多くなります。根っこに不安があるから、〝日本の伝統や文化は素晴らしい〟と誇る態度が、他の伝統や文化をないがしろにする態度に裏返り、他人や他国に攻撃的な姿勢を取ってしまう。これが現在の日本のナショナリズムの特徴だ、というわけです。
※1
『新クラウン英和辞典 第5版』三省堂
※2
『新明解国語辞典 第六版(小型版)』三省堂
※3
たとえば、日本という国家の中にはアイヌという先住民族がいますが、漁業にかかわる自分たちの自由を法律で保障するように、国に訴えています。また、沖縄の人々は、沖縄にたくさんあるアメリカ軍基地からの解放を求めて闘っています。日本が独立した国家だと言う場合には、こうしたことを思い出すことが大切です。
※4
小熊英二・上野陽子『〈癒し〉のナショナリズム――草の根保守運動の実証研究』慶應義塾大学出版会、24頁
「総じて彼らは、自分にあらかじめ内在していた「健全な常識」に従ってナショナリズム運動を開始したのではなく、その逆に、現代社会において規範となるべき「健全な常識」が見いだせないがゆえの不安からナショナリズムを求めたのであろうと思われる。原理的に考えれば、こうしたナショナリズムへの期待は、価値観の揺らぎが激しくなればなるほど、家族や友人といった現実の人間関係が崩壊すればするほど進行する」
※5
桜とナショナリズムの関係については、有岡利幸さんが書いた『桜Ⅱ ものと人間の文化史』(法政大学出版局)という本にくわしい説明があります。ソメイヨシノという桜の品種が〝クローン〟だったからこそ日本中にお花見が広がったことや、なぜ日本の人々はこんなにお花見が好きなのか、どうして日本全国の学校に桜の木が植えられているのか、桜が戦争にどのように利用されたかなど、興味深い事柄がたくさん紹介されています。
※6
『余は如何にして基督信徒となりし乎』鈴木俊郎訳、岩波文庫、106頁
「余を生んだ国土はその青年のすべてから何か国土の名誉と栄光に対する惜しみない寄与を要求する、そして余は余の国土の忠実な子となるため、我が国の境界のかなたに拡がる経験と知識と観察とを必要とした。第一に人となること、次に愛国者となることが、余の外国行の目的であった」