これって、わたしの高校時代の経験にちょっと似ている感じがします。みんなが誇れる理想のクラスにしよう。そのためにクラス全員が協力しよう、連帯しよう。このようなわたしの思いは、自分自身の周囲に「健全な常識」が欠けていることへの不安と絶望からきていました。学校という狭い世界の中に内と外を区切る線をはっきり引いて、外に比べて自分のクラスは素晴らしいと思いたかった。その思いは、他のクラスでイジメがあったことを喜ぶような、線の外側にたいする攻撃性を隠し持っていたのです。現在、わたしはこうして文章を書く仕事以外にも、自分が暮している地域を〝良い〟ものにしていくための活動を行っていますが、時々不安になるんです。自分はあの頃と同じことをしていないだろうか、って。
繰り返しますが、自分が所属しているグループや場所に親しみや誇りを持つことは、悪いことではありません。とはいえ、グループや場所を大切に思うみなさんの気持に、どのような不安が影響しているか、他のグループや場所への攻撃性がどのくらい含まれているのか、このことを考えてみるのもムダではないと思います。
この国のナショナリズムに、現代社会の変化がかかわっていることを確認しました。ですが、排外的なナショナリズムは、現代だけの問題ではありません。歴史をさかのぼって、もう少し深掘りしましょう。
内村さんの〝愛国心〟とは?
わたしたちは、慣れ親しんだ環境に愛着を持ち、安心感を得ます。出身地の風景を見たり、方言を聞いたりすると、なんとなく落ち着く、というように。それにたいして、国をこの目で見たり、国にこの手で触ったりすることはできないですよね。だから、身近な場所や仲間にたいする愛着と、日本や日本人にたいする愛着は、イコールではありません。それは、つぎのことを意味しています。具体的な地域と、抽象的な国のあいだには大きな隙間があって、その隙間をジャンプしないと、愛国心=ナショナリズムは生じない、ということです。
ここまで、伝統と文化ということばを何げなく使ってきましたね。ただ、〝日本の伝統と文化〟とまとめられるほど、現実は単純ではないはずです。それぞれの地域ごとにユニークな伝統や文化があります。暑いか寒いか、雨が多いか少ないか、どんな植物が育つか……。伝統や文化は、こうしたたくさんの条件の組み合わせから分岐するものですから、違っていて当然です。こうした違いも、国へのジャンプを妨げる要素になります。異なる伝統や文化を持ち、喋ることばもかなり違う人たちが、同じ国民という意識を持つのは、じつはむずかしいのです。
でも、わたしたちは、ジャンプしたつもりなんてなくても、自分が日本という国の一員であることを納得していますよね。これって不思議だと思いませんか。そこで鍵になるのが、メディアが与える情報です。
たとえば、桜の開花情報。桜前線が日本列島をだんだん北上する様子が、日本地図に日付と桜のイラストを書き込んだ画面で伝えられますよね。今日は大阪で開花しました、今日は東京で開花しました、と日々情報が更新されます。開花にあわせて各地でお花見が開かれ、その模様がまた新聞やテレビで取り上げられます。日本地図と桜のイラストを毎日眺め、日本全国で行われるお花見のひとつに自分も参加することによって、〈自分は日本という国の一員として、他の日本の人たちと同じ季節を共有しているんだ〉といつのまにか刷りこまれます。オリンピックやワールドカップなど、国際的なスポーツイベントにも、よく似た効果がありますよね。 ※5
明治時代は、新たなメディアの力によって、人々が地域から国や国民へのジャンプを遂げた時代でした。新聞の〝書きことば〟の影響で、日本語を意識する人が急激に増えました。〈行幸(ぎょうこう)〉と呼ばれる、明治天皇の全国への旅のニュースが、人々に国という感覚を植え付けました。鉄道は、遠く離れた地域に暮す他人たちも、時間や空間を共有する同じ日本国民だということを実感させたメディアでした。全国の学校に配布され朗読された教育勅語も、ナショナリズムの基礎を作ったメディアの一つだったと、言えそうです。内村さんは、そのようにして日本人が日本人になっていった、最初の世代だったのです。
内村さんのなかには、若い頃から強烈な愛国心がありました。1884(明治17)年、23歳の内村さんが、個人的な絶望感を抱いてアメリカに渡ったことは、すでにお話ししましたね。ですが、『余は如何にして基督信徒となりし乎』には、外国放浪の目的はけっしてそれだけではなかった、と書かれています。
国の名誉と栄光のために全力で尽すことが、日本で生まれた若者のすべてに求められている。わたしも国の忠実な子になるために、外の世界での経験や勉強が必要だった。第一に人になること、そして愛国者になることが、わたしの外国行きの目的だった。※6
なんだか過激ですね! でも、内村さんが特殊だったわけではありません。
江戸時代が終った大きな要因が、外国との関係でした。江戸幕府のような古い考え方でいては、アメリカ、イギリス、ロシアといった〝列強〟に不平等な条約を結ばされて、乗っ取られてしまうかもしれない。それじゃダメだ。古い制度を改革し、外国と互角に渡り合える国家を新たに作り上げなければならない。こうした必死の願いが原動力となって、江戸幕府が倒され、明治時代がスタートしました。子どもの頃にその空気を肌で感じた内村さんが、自分も愛国者にならなければならないと信じたのは、ごくふつうのことだったのです。
外国との出会いをきっかけに、日本列島に住む人々は、自分が日本という国に住む日本人だと認識しはじめ、ナショナリズムが〝平等〟への意識をみるみるうちに高めました。〈自分たちは同じ日本人なんだから、誰もが同じ権利を持っているはずだ〉というふうに。つまり、日本のナショナリズムには、〝平等〟を目指す明るい面と、外国の勢いにのみこまれたらどうしようという不安の面の、両方があったのです。これは、高校時代のわたしが抱いていた、安全な内側・危険な外側というイメージに、重なるところがありそうですね。そして、不安の面にみんなの心が集中しすぎた時に、〝みんな同じ〟から外れた人を徹底的に責め、線の外側に排除する、「不敬事件」のような出来事が起こったのではないでしょうか。
若い頃の内村さんは、西洋と東洋のまんなかに位置する日本には、それぞれ異なる歴史と文明を持つ西洋と東洋の架け橋になる使命があるんだ、と熱く語っていました。そう考えることで、続々と〝列強〟が押しよせてくる不安をしずめ、前向きな行動に転換しようとしたのだと思います。その主張をくわしく説明した『地理学考』という本には、世界地図が何度も登場していて、地図も明治時代の重要なメディアだったことがよくわかります。
さて、前置きが長くなりました。次回は、内村さんのナショナリズムの、その後の紆余曲折を追いかけましょう。
※1
『新クラウン英和辞典 第5版』三省堂
※2
『新明解国語辞典 第六版(小型版)』三省堂
※3
たとえば、日本という国家の中にはアイヌという先住民族がいますが、漁業にかかわる自分たちの自由を法律で保障するように、国に訴えています。また、沖縄の人々は、沖縄にたくさんあるアメリカ軍基地からの解放を求めて闘っています。日本が独立した国家だと言う場合には、こうしたことを思い出すことが大切です。
※4
小熊英二・上野陽子『〈癒し〉のナショナリズム――草の根保守運動の実証研究』慶應義塾大学出版会、24頁
「総じて彼らは、自分にあらかじめ内在していた「健全な常識」に従ってナショナリズム運動を開始したのではなく、その逆に、現代社会において規範となるべき「健全な常識」が見いだせないがゆえの不安からナショナリズムを求めたのであろうと思われる。原理的に考えれば、こうしたナショナリズムへの期待は、価値観の揺らぎが激しくなればなるほど、家族や友人といった現実の人間関係が崩壊すればするほど進行する」
※5
桜とナショナリズムの関係については、有岡利幸さんが書いた『桜Ⅱ ものと人間の文化史』(法政大学出版局)という本にくわしい説明があります。ソメイヨシノという桜の品種が〝クローン〟だったからこそ日本中にお花見が広がったことや、なぜ日本の人々はこんなにお花見が好きなのか、どうして日本全国の学校に桜の木が植えられているのか、桜が戦争にどのように利用されたかなど、興味深い事柄がたくさん紹介されています。
※6
『余は如何にして基督信徒となりし乎』鈴木俊郎訳、岩波文庫、106頁
「余を生んだ国土はその青年のすべてから何か国土の名誉と栄光に対する惜しみない寄与を要求する、そして余は余の国土の忠実な子となるため、我が国の境界のかなたに拡がる経験と知識と観察とを必要とした。第一に人となること、次に愛国者となることが、余の外国行の目的であった」