復讐は、連鎖的に次の復讐を生み出してしまうから、やめるべきだ。ここまでは理解できます。ですが、自分の右の頬を殴る悪人に、左の頬も差し出して殴らせてやれ、というところまで進むと、戸惑ってしまいます。それに何の意味があるんだろう、って。
ところで、若い頃に『新約聖書』を読み、このセリフに感銘を受けた人がいます。インドの、ガンディーという人です。※4 ガンディーはキリスト教徒ではありませんでしたが、内村さんは晩年に、彼の活動を知って、賞賛しました。これはまさに「キリスト的」だ。敵を愛し、敵のために祈ったイエスの精神が生かされている、って。※5 それはどんな活動だったのでしょうか。
ガンディーと内村さんの共通点
たとえば、1930年の「塩の行進」があります。当時、イギリスの支配を受けていたインドでは、イギリスの会社が塩を生産し、販売すると法律で決められていました。そのため、インドの人々は、生活必需品である塩を手に入れるのに苦労していたのです。そこでガンディーは、仲間たちと一緒に長い距離を歩きとおした後、無許可で勝手に、海水から塩を作りました。なんだ、それだけか、と思いますよね。
こうした行動は、「市民的不服従」と呼ばれます。「市民的不服従」には様々なかたち、やり方がありますが、共通する要素が、自分の良心にもとづいて、法律などの決まりや命令に従わないこと、協力しないことです。※6 法律がつねに正しい目的で使われるとは、かぎりません。権力者が法律を悪用して国民を苦しめた例が、たくさんあります。そんな場合に、ルールをあえて破ることで、〝その力の使い方はおかしいですよ〟と伝えるのです。従わない。協力しない。ちょっと受け身な感じがしますよね。たしかにそのとおりで、「市民的不服従」は、力に力で対抗しない、「非暴力」による主張なのです。ここが、内村さんがガンディーに共感したポイントでした。
二人は、「非暴力」イコール〝無力〟だとは、考えていませんでした。ガンディーの活動は「受動的抵抗」と呼ばれていましたが、ガンディーの意見で、途中から「サティヤーグラハ(真理へのこだわり)」に呼び方が変えられました。「非暴力」は弱い者の武器だ、という世間の見方に反対だったからです。※7 内村さんも、「無抵抗主義の教訓」という文章で、こんなふうに言っています。
〝無抵抗は、けっして消極的ではありません。敵を愛し、敵の利益と権利を自分のことのように考えないと実行できないのだから、抵抗するよりも勇気がいるんですよ〟※8
「非暴力」を、積極的な強さと捉えていたことが、わかりますね。でも、それって、どんな強さなのでしょう。「非暴力」の力とは、どのようなものなのでしょうか。「敵を愛する」ということばが、理解の鍵になりそうです。
「非暴力」の力
もしも、右の頬を殴った相手が、黙って左の頬を向けてきたら、どのように感じるでしょうか。ためしに、敵の立場から想像してみてください。わたしなら、まともに反抗されるより余計にイラッとして、強い力で思いっ切り、相手を殴ってしまう気がします。まさか、自分が愛されているとは、思わないですよね。なぜだろう、って不思議な気持にはなるでしょう。
次は、イエスのセリフに影響を受けたガンディーの行動を、敵の立場から考えます。ガンディーも、警察から暴力を振るわれた時、けっしてやり返さないと決めていました。また「市民的不服従」を行った後は、逃げずに逮捕されました。この法律は間違っている。そう思うからあえて破ったのに、法律による処罰をすなおに受け入れるのです。権力に反逆した罪で捕まり、おとなしく十字架にかけられたイエスが、重なって見えますね。取り締まる側は、ガンディーの対応に苛立ち、カッとなったのではないでしょうか。でも同時に、不思議な気分にもなったはずです。
こんなふうに、敵を不思議な気持にするのが、「敵を愛する」ということです。
さすがに、そんなバカな、ってみなさん思いますよね。「敵を愛する」って、ふつうは、敵とわかり合ったり、仲直りしたり、みたいなイメージですよね。それとは全然、かけ離れています。ですが、内村さんはよく、キリスト信徒の愛は、人から喜ばれる愛ではなく、人から憎まれる愛だ、と言っていました。※9
あらためて、まとめます。敵は、相手の「非暴力」の態度によって、ふつうとは違う、強い怒り、激しい憎しみの感情をいだきます。なぜでしょう。従順な表情。おとなしく差し出された左の頬。そこに、理解を超えた力がこもっているのを感じて、おそろしくなるからではないでしょうか。そのおそろしさを打ち消そうとして、相手の左の頬を、思い切り殴るのです。でも、それは消えません。殴った自分の手に、不思議な感触として、おそろしさが残ります。それが「非暴力」の力なのだと思います。
つまり、「敵を愛する」っていうのは、このような「非暴力」の力を、敵に手渡すことです。
だとしても、「非暴力」は、たんなる〝無力〟と何が違うのでしょうか。ふたたびガンディーの方へ寄り道します。
日々の食事を思いうかべてみます。テーブルに並べられた料理の多くは、他の生命を殺した結果です。でもわたしたちは、そんなこと気にせず食べ、おいしいと感じますよね。ちょっとむずかしく言うと、どんな人も、自分より弱い者の苦しみから快楽を得ていながら、それを何とも思わない自己中心性を、自然にそなえているのです。
そのような、根深い自己中心性と向き合い、ものの見方や感じ方を少しでも変えていくこと。何気ない生活の中にひそんでいる、自分自身の〝悪〟に従わないようにすること。協力しないようにすること。これが、ガンディーの活動の原点でした。ガンディーは、食べものだけでなく、着る服、住む家、働き方など、日々の具体的な行動を、徹底的に見直しました。小さな「非暴力」を、コツコツと、真剣に積み重ねていったのです。
※1
「余が非戦論者となりし由来」(『内村鑑三全集』12巻、岩波書店)424頁をわたしなりにかみ砕いて書きました。
※2
「平和の福音(絶対的非戦主義)」(『内村鑑三全集』11巻、岩波書店)407頁
※3
『新約聖書』の中の「マタイ福音書」5章の文章を、わたしなりにかみ砕いて、読みやすいことばづかいに変更しました。
※4
『ガンジー自伝』蠟山芳郎訳、中公文庫 102頁
※5
「羅馬書の研究」(『内村鑑三全集』26巻、岩波書店)406‐407頁
※6
たとえば「良心的兵役拒否」も、古くからあった「市民的不服従」の一種です。 昔から多くの国で、兵役(一定期間、軍隊の仕事につくこと)が国民に義務付けられていました。自分は戦争に協力したくないと考え、兵役を拒否するのが、「良心的兵役拒否」です。古代ローマでは、初期のキリスト教信徒の多くが、兵役を拒否したために処刑されたそうです。国が決めたことより、〝殺してはいけない〟というキリスト教の教えのほうが大事だと、判断したのですね。
※7
『ガーンディー自叙伝2』田中敏雄訳注、平凡社東洋文庫 122頁
※8
「無抵抗主義の教訓」(『内村鑑三全集』12巻、岩波書店)172頁をわたしなりにかみ砕いて書きました。
※9
たとえば「キリスト伝研究(ガリラヤの道)」(『内村鑑三全集』27巻、岩波書店)363頁などです。
※10
「非戦論の原理」(『内村鑑三全集』16巻、岩波書店)19頁