次の年、日露戦争がはじまります。内村さんは『万朝報(よろずちょうほう)』という新聞の記者だったのですが、新聞社が開戦に賛成の立場を取ったために、退社しました。戦争を認めるような会社では働けない、と抗議したのです。同僚の幸徳秋水さん、堺利彦さんも一緒に『万朝報』を辞めました。この二人も、内村さんと同じく、戦争に強く反対する「非戦論」を主張していたのです。戦争はイヤだなぁという気持(こちらは「厭戦論」と呼ばれます)を持っていた人なら多くいたのですが、開戦してからも積極的な反対の声を上げ続けたのは、内村さんや幸徳さんなど、ごくわずかでした。一旦戦争になると、日本国民は戦況を伝えるニュースに熱狂し、「非戦論」はすぐ時代遅れになってしまいました。
内村さんの文章に戻って、その意味を考えてみます。戦争はたくさんの命を犠牲にして行われます。人々がそんな戦争に興奮している様子を見て、内村さんは驚いたのでしょう。それで、人間の奥底には、つぎのような思いがあるのかもしれない、と気づいたのです。
死にたい。自分も他人もみんな滅んでしまえばいい。
こうした思いに突き動かされた結果、戦争が起こるんだ、って。なんだか恐いですし、大げさに聞こえますよね。でもたしかに、こうした思いは、日々の生活のなかで、色んな形や大きさで、心を横切っているのかもしれません。たとえばわたしの場合……。
〝悪〟と向き合う
SNSに、こっそりわたしの悪口を書き込む知り合いがいます。すべて、根拠のない誹謗中傷です。彼は同じ町に住む、同世代の人なのですが、ある日から一方的にわたしを恨むようになりました。わたしが書き込みを閲覧できないように、彼はわたしのアカウントをブロックしています。なので、わざわざ別のアカウントを作って、時々彼の書き込みを覗いているのです。自分の悪口が書かれていれば、とてもイヤな気分になります。なにも書かれていなくても、きっとそのうち書かれるだろうからまたチェックしにこなきゃ、という気持になります。すごく馬鹿馬鹿しいとわかっているのですが、やめられません。そして、ふとした時に、自分が彼への嫌がらせ、たとえば車のタイヤをパンクさせる妄想をしていることに、気づいたりするのです。
もちろん、嫌がらせを想像することと、じっさいに危害を加えることは、違う次元の話です。でも、不思議だと思いませんか。わたしには、楽しい時間を過ごす家族がいます。様々なプロジェクトを進める気の合う仲間もいます。この連載の締め切り日も毎月やってきます。それなのに、どうでもいいはずの書き込みに気を取られ、時間を無駄にしてしまうのです。なぜ、たった一つの良くない事柄が、他の良い事柄を押しのけて、心を占領してしまうのでしょうか。
ところで、内村さんが若い頃アメリカへ渡り、しばらく施設で働いていたことを前に話したと思います。その経験について『余は如何にして基督信徒となりし乎』という本に、こんなことを書いています。
病院にいる、障害のある子どもたちのために、自分を犠牲にして人助けを行うつもりでいた。それなのに、生まれながらの利己心が、あらゆる怖ろしい極悪の姿で現れて、自分自身の中の暗黒に圧倒された。※6
病院でどのような出来事が起こったのか、具体的にはよくわかりません。かなり謎めいた表現ですが、「暗黒」ということばは、〝悪〟と言い換えられるでしょう。他人を助けようとする自らの心に〝悪〟を見つけてショックを受けたというエピソードは、内村さんが人一倍、〝悪〟に敏感だった事実を物語っています。
このことと、あの不気味なことばを、つないでみます。自分の生命も、他人の生命も、心から愛せず、死を望んでしまう。それが、内村さんが考える、〝悪〟の究極のすがただったと、思います。
頭の中で知人に復讐するわたしは、内村さんの基準に照らすと、どうなるでしょうか。あくまでも妄想で我慢しているのだから、〝悪〟ではない、と言いたくなります。でも、パンクした車で彼が事故を起こすかもしれません。想像とはいえ、生命を軽く扱っていることは間違いありません。わたしの心にも、自他の死を望む〝悪〟の心が潜んでいないとは、言い切れない。正直、そう感じます。
きっと、内村さんも「不敬事件」の時には、自分を攻撃する人たちを憎み、復讐を想像したでしょう。そのたび、心に潜む〝悪〟の勢いに圧倒されたのかもしれません。キリスト教は博愛をすすめる宗教だ、というイメージがあります。博愛というのは、広い心で、すべての人を分けへだてなく愛する、ということですね。そのイメージにたいして、内村さんはよく、〝たしかにそうだけど、イエスやパウロ(キリスト教の普及に大きな役割を果した信徒です)は、たくさん人を愛したけれど、たくさん人を憎んだんだよ〟と強調していました。そこには、どうしても人を憎んでしまう自分自身への悩みが、重ねられていたはずです。人はなぜ生命を心から愛せないのかというギモンを、内村さんは他人ごとではなく、自分ごととして受けとめていたに違いありません。
次回のために、平和についての内村さん独特の考えを、まとめます。
政治だけでは、けっして戦争はなくなりません。平和は、人が生命のほんとうの価値に気づけるかどうかにかかっています。そして、そこには難題が立ちはだかっています。愛することがとても難しい相手を、たとえば自分を攻撃する敵を、愛することができなければならないのです。個人個人が絶望をこえて、敵を愛することで、はじめて平和が開けるのです。このことについて、また次回、くわしく考えましょう。
こうした、ちょっとクセの強い考えのベースには、やはり『新約聖書』のことばがありました。とりあえず、内村さんが思う愛や平和のイメージが、〝みんな仲良く、お互いに優しくしましょう〟という感じとは、かなり違うらしい、ということを覚えておいてください。
※1
AINは、Athlètes Individuels Neutresというフランス語の略です。
※2
西村章『スポーツウォッシング なぜ〈勇気と感動〉は利用されるのか』集英社新書 199頁
※3
「世界の平和は如何にして来る乎」(『内村鑑三全集』18巻、岩波書店)234頁
※4
「戦時に於ける非戦主義者の態度」(『内村鑑三全集』12巻、岩波書店)153頁
「剣(つるぎ)を鞘(さや)に収めることが永久の平和ではありません、言ふまでもなく平和とは好意より出た者でなくてはなりません、(中略)永久に継ぐべき平和は敵を敬し、其適当の利益と権利とを認めてやるより来る者であります」
※5
「戦争を好む理由」(『内村鑑三所感集』鈴木俊郎編、岩波文庫)95頁
※6
『余は如何にして基督信徒となりし乎』鈴木俊郎訳、岩波文庫 131頁
「慈善の要求するものは完全な自己犠牲と全部的の自己没却であるが、余がその要求に自分自身を合致させようと努力するなかに、余の生来の利己心はそのあらゆる怖しい極悪の姿をもって余に現された、そして余自身の中に認めた暗黒に圧倒されて、余は意気消沈し、言うべからざる苦悩に悶えた」