オリンピック・パラリンピックから考える、個人と国の関係
こんにちは。みなさんは猛暑が続いた今年の夏を、どのように過ごされましたか? パリで開催されたオリンピック・パラリンピックを観戦した人もいると思います。オリンピックは〝平和の祭典〟と呼ばれていますよね。その理由の一つが「オリンピック休戦」です。ざっくりした説明ですが、オリンピックとパラリンピックの開催期間中と、その前後7日間は、戦闘を停止しましょうという約束が、「オリンピック休戦」です。1994年のリレハンメル冬季五輪から、五輪開催に先立って、国連総会で決議されるようになりました。
ところで、今回のオリンピック・パラリンピックに、特別な選手団があったのを知っていますか。「難民選手団」と「AIN」です。何が特別かと言うと、選手団はふつう国ごとに結成されますが、この二つにはそれが当てはまりません。その背景には、戦争の問題があります。
難民というのは、戦争などによる危難から逃れるために、仕方なく、生まれ育った国や地域を出た人々のことです。所属する国を失ってしまったアスリートにも活躍してほしいという願いから、「難民選手団」が結成されました。パリ五輪では、イランやシリアの出身者などが「難民選手団」の一員として出場しました。
逆に、所属する国があるにもかかわらず、国の代表としてではなく、個人として、「AIN(中立な個人参加の選手)」※1という資格で出場した選手たちがいました。ロシア国籍、ベラルーシ国籍の選手たちです。彼らがメダルを獲っても、表彰式で国歌は流されず、国旗も掲揚されませんでした。なぜ、そんなことになったのでしょうか。
みなさんは、ロシアがウクライナへ軍事侵攻を始めた時のことを覚えていますか? あれは2022年、北京での冬季オリンピックが閉会した直後の出来事でした。つまり、ロシアは「オリンピック休戦」の約束を無視して、ウクライナに攻め込んだのです。国際オリンピック委員会(IOC)はそれを受けて、ロシアと、ロシアの軍事同盟国であるベラルーシのパリ五輪参加を認めないと決めました。ロシアの行動は世界平和というオリンピックの理念に反するものだ、と判断したのですね。でも、選手のために、個人参加なら許可します、という救済策を用意しました。それが「AIN」です。選手には、軍との関わりがないか、軍事侵攻を支持していないかなどの、厳しいチェックが行われたそうです。
この二つの選手団に注目すると、国と個人の、ややこしい関係に気づきます。
まず、「難民選手団」。やむを得ない事情で、もと住んでいた国から、別の国に移動した人々。彼らがそこに留まり、暮らしていくためには、その別の国から〝あなたは難民として、ここにいてかまわないですよ〟と認めてもらう必要があります。難民と聞くと、国から独立した個人であるかのように、想像してしまいがちです。でも、その個人を、所属する国がない人だと決めているのも、やはり国なのです。
つぎに「AIN」。ロシアとベラルーシの選手だけが、国と無関係の個人として扱われました。ですが、個人と国を、そのように簡単に分けられるのでしょうか。じっさい、パリ五輪以前の柔道の世界選手権では、ロシアとベラルーシの選手が中立な個人の立場で参加したことで、ウクライナの選手は大会をボイコットしました。柔道家の山口香さんは、戦争をしている国同士の選手が直接対決することは、とても難しいのだと、インタビューで語っています。山口さんのことばを聞いてみましょう。
「現実にああやって戦争をしていたら、『スポーツは別だから……』と第三者が言ったところで、自国の人たちはどうしたってそう見てしまうし、出場している選手はその思いを背負ってしまう。だから、国の代表ではないから出てもいいんだ、というほどきれいごとの簡単な話ではない」※2
スポーツにかぎらず、現在の世界では、国と無関係に、ただの個人として活動することは、ほとんど不可能だと言えそうですね。これまでの回で、日本が明治時代に近代化し、人々のあいだに国民という意識が広がったことを見てきましたね。それは世界中で、それぞれのかたち、それぞれのタイミングで、生じた出来事でした。個人と国のややこしい関係は、そこから始まっていたのです。
とはいえ、ふだんわたしは、自分と国の関係なんて、まったく意識せずに暮らしています。みなさんも、そうではないですか。スポーツ選手のような特別な職業でないかぎり、日常の中で〝国を背負う〟という感覚を持つことは、ふつうありませんよね。なにより、日本という国が、他国と戦争していないこと、つまり平和だということが、大きな理由なのかもしれません。
※1
AINは、Athlètes Individuels Neutresというフランス語の略です。
※2
西村章『スポーツウォッシング なぜ〈勇気と感動〉は利用されるのか』集英社新書 199頁
※3
「世界の平和は如何にして来る乎」(『内村鑑三全集』18巻、岩波書店)234頁
※4
「戦時に於ける非戦主義者の態度」(『内村鑑三全集』12巻、岩波書店)153頁
「剣(つるぎ)を鞘(さや)に収めることが永久の平和ではありません、言ふまでもなく平和とは好意より出た者でなくてはなりません、(中略)永久に継ぐべき平和は敵を敬し、其適当の利益と権利とを認めてやるより来る者であります」
※5
「戦争を好む理由」(『内村鑑三所感集』鈴木俊郎編、岩波文庫)95頁
※6
『余は如何にして基督信徒となりし乎』鈴木俊郎訳、岩波文庫 131頁
「慈善の要求するものは完全な自己犠牲と全部的の自己没却であるが、余がその要求に自分自身を合致させようと努力するなかに、余の生来の利己心はそのあらゆる怖しい極悪の姿をもって余に現された、そして余自身の中に認めた暗黒に圧倒されて、余は意気消沈し、言うべからざる苦悩に悶えた」