そこは普通の住宅を少し改造しただけのアットホームな所で、いくつかの部屋に何台ものベッドが並べられ、小・中学生くらいの少女たちが暮らしていた。この定住施設は(独身の)少女のみが対象であるため、オルガは特別に受け入れられていた。

モニカさんらが設立・運営するNGOの女子定住施設の部屋(2019年)。オルガが世話になった頃は、もっと狭い部屋にベッドがぎっしり並べられていた 撮影:篠田有史
オルガの「お母さん」、モニカさんが、今後の予定を教えてくれる。
「2日後に行くプエブラでは、普通の家庭にホームステイしながら、ぬいぐるみ工場で働けるんです。子どもの面倒も見てくれるうえ、仕事を覚えれば給金ももらえます。娘と2人で自立したいというオルガには、魅力的な選択肢だと思います」
それにしても、オルガはよく路上から戻ってきたものだ。路上仲間とまた薬物に手を出してしまえば、普通はそれをやめて、1人、施設に戻ることは難しい。一緒に出ていった少女は戻らず、オルガ1人が娘を連れて帰ってきたというから、相当な覚悟だ。なぜそれができたのか? 本人に問いかけると、こんな言葉が返ってきた。
「1週間くらい路上にいる間に、私はともかく、娘はこんな所にいてはいけない、と思ったの」
オルガは、路上の仲間たちに、娘のそばでアクティーボなどの薬物を延々と使ったり、酒を飲んで騒いだりしないよう、頼んだという。にもかかわらず、彼らがそれを守らないことが、彼女は我慢できなかった。娘が薬物を嗅ぎ続け、危険な行動をとる人間のそばにいることが、母親として許せなかったのだ。
またしても、娘が母親を救った。私にはそう思えた。と同時に、プエブラで職業訓練を受けるという彼女の計画に、密かな期待を抱いた。路上仲間のいない地域で、家庭的な環境の下、子育ても手伝ってもらいながら仕事に専念することができれば、薬物や路上という誘惑に負けることは避けられるかもしれない。
「でも、本当は不安なの」
オルガの気持ちは、実は相当揺らいでいた。本来ならば、私がメキシコに到着するよりも前に、すでにプエブラへ引っ越しているはずだったと言う。
「普通の家で暮らしたことはほとんどないし、ひとつの仕事に規則正しく取り組んだこともないし……できるかどうか」
そう弱音を吐くオルガに、私は、長い路上生活を生き抜き、子どもを産んだ後もより良い人生をつかもうとがんばってきた彼女なら、時間はかかっても、きっとやり遂げるに違いないと、エールを送った。それに対し、「闘う母」は、照れくさそうな笑みを浮かべながら、静かに「ありがとう」を繰り返した。

モニカさんらが設立・運営するNGOのデイセンターにて。右から、タバコを吸うオルガ、娘のアナベレン、筆者、デイセンターに来ていた少女。2003年 撮影:篠田有史
米国行き
手先が器用なオルガは、プエブラで、ぬいぐるみを作る技術を身につけることに成功する。だが、訓練を終えた後、そこで働きながらアナベレンと2人で生活することには、馴染むことができなかった。その結果として、母娘はメキシコシティに戻り、「カサ・ダヤ」とは別の母子支援施設に滞在することになる。しかし、そこの施設長の女性とはそりが合わず、結局、母親代わりのモニカさんがいるNGOの施設の近くに部屋を借りて、ぬいぐるみ作りなどの内職をしながら生活しはじめた。アナベレンはまだ2歳と幼く、頼れる人がそばにいる方が安心だからだ。
自立生活を始めたオルガは、まもなく電力会社の作業員をしているという男性と付き合うようになる。相手はずっと年上で、しかも妻子持ち。私たちには嫌な予感がしたが、本人は「いい人よ」と言い、会う約束をした日にも一度、彼を連れて現れた。悪い人間には見えなかったが、妻子持ちなのに若い娘と付き合っている時点で、あまり信用できる相手ではなかった。それでもオルガが一緒にいたいのであれば、私たちが強く反対するわけにもいかない。
そんな状況が数年続いたある日、私は久しぶりに単身でメキシコシティに降り立ち、すぐにモニカさんに連絡をとった。すると、いきなり予想もしないニュースが飛び込んできた。
「オルガが彼氏を追いかけて、米国へ行こうとしています」
電話口のモニカさんの話に、私は言葉を失った。しかも、娘をモニカさんの施設に残し、モハードス(不法入国する移民を指す言葉。国境の川を歩いて渡っていたことから、「濡れた」という意味)のグループに入って、向こうにいる彼のところまで来るように言われているのだというから、聞き捨てならない。
私はモニカさんに、「オルガにすぐ会いたい」と伝え、翌日、施設に来るというオルガのもとへ飛んでいった。