米国により、移民への対応を押し付けられた形のメキシコは、メキシコシティやティファナといった移民の集合地点となっている都市で、公共施設を開放し、食事や入浴、医療などのサービスを提供している。既存の支援施設だけではスペースも物資も十分には供給できないからだ。メキシコのペニャ・ニエト政権はまた、強制送還中心だった「キャラバン以前」の政策を一変して、「難民申請をして国内南東部(主にチアパス州)に留まるならば、一時労働許可証や医療と教育へのアクセスを保証する」と発表。移民キャラバンの2600人以上が、このオファーを受け入れた。
わずか数日間に何千人もの移民を迎えることになったティファナでは、施設に入らず野宿する移民の姿に不安を感じる市民もおり、抗議行動も起きている。同市市長は、「この異常事態に対応する策を講じて欲しい」と、メディアを通して連邦政府や国際連合に訴えた。経験のない社会的ストレスは、人々から寛容さを奪いはじめている。 それでもなお、多くの市民は、旅を続けるキャラバンに食事を提供したり、ヒッチハイクに協力したりと、様々な形で手を差しのべている。現地調査会社Gii360によると、メキシコ国民の半数以上が、移民を助けるべきだと考えているという。自らも歴史的に米国へ移民を送り出してきたメキシコ人は、祖国での貧困と暴力、そして米国の移民政策に翻弄される者の苦難を知るからこそ、「移民危機」にできる限り人道的な対応をしようとしている。
メキシコでも中米でも、移民の大半は、決して好き好んで祖国を離れるのではない。自分の力ではどうしようもない現実を前に、旅を決意するのだ。たとえ、その先にある世界で新たな苦難に出会っても後戻りはできないが故に、悔しさと苦しみ、悲しみを抱えながらも、わずかな光の見える方へと進んでゆく。
移民の問題を考える時、私たちはまず、「移民」という行為の背後にある問題と自分自身のつながりを考え、理解する努力をしなければならない。そして、共に問題解決に取り組み、支え合うことを第一としなければならない。現代世界における移民の大半は、貧困や暴力などにより生きることが困難な状況にある国の出身だ。彼らの国がそうした状況に追い込まれたのは、「資本主義先進国」の私たちが築いてきた経済システムがもたらす格差と矛盾に因るところが大きい。「私が移民とならないのは、移民する彼らが私の今を支えているからだ」と考えるべきだろう。その自覚なしに、移民の問題を他人事とするのは、無知以外のなにものでもない。
※当連載を基に大幅加筆した単行本『マラス 暴力に支配される少年たち』(集英社、開高健ノンフィクション賞受賞)が文庫化しました。(集英社文庫『マラス 暴力に支配される少年たち』のサイト)