生まれた家庭の経済力によって、大学など高等教育への進学率が異なることは、私が専門とする教育社会学の研究ですでに繰り返し実証されています。「貧困家庭に生まれても努力で成功した人もいる」という少数の実例があっても、貧困家庭の出身者が構造的に不利な状態に置かれているという客観的事実は揺るぎません。若者の努力不足や自己責任を強調することによって、この客観的事実を否定することは間違っています。
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また、一概に親への感謝や、厳しい現実を積極的に受け入れることを求める意見にも大きな疑問があります。例えば親から虐待されて育った若者に対し、過去は忘れて親に感謝しろ、そんな家庭環境から生じた苦境までも積極的に受け入れろというのは、余りにも非人道的・非人間的な意見のような気がします。
私は「親ガチャ」は、若者の努力不足や自己責任、親への感謝を強調するような風潮に対する反発や抵抗から生み出された言葉だと思います。「格差と貧困」が深刻化し、努力に向けたスタートラインですら不平等な中で、努力不足や自己責任を問われるのは理不尽でしかありません。また、親からの仕打ちに苦しんでいる子どもたちの中には、自分にその原因があると信じ込まされている人が大勢います。こうした自己責任論が蔓延する日本社会において、「こんな状況は自分で選んだのではなく、たまたま当たっただけ」「私たち自身は何も悪くない」という空気が若者の間に広まっても何らおかしくはないでしょう。実際、「親ガチャという言葉に救われた」という声もSNSで多数発信されています。
このように「親ガチャ」という言葉は、一部の苦境にあえぐ若者たちにとって貴重な免罪符であることを十分に認識した上で、私なりの問題提起を行いたいと思います。というのも私は、この言葉には限界もあるように思うからです。
「親ガチャ」の「親」は単独で存在しているわけではありません。「親」も子も同じ社会の中で生きています。「生まれによる不平等」は、その親だけに起因するものではなく、社会のあり方が「生まれによる不平等」=「出身階層の格差による再生産」を生じさせているのです。「親」だけに焦点を当てると、背後に広がっている社会への視線が弱くなってしまう問題があります。また、「ガチャ」は運次第ということを意味しますから、自分は何も悪くはないけれど、運命だから「仕方がない」として受け入れてしまう危険性があります。
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こうした「親ガチャ」問題を突破するには、どうしたらよいでしょうか。私は、若者が「所詮、人生は親次第」と考えてしまう、今の日本社会のあり方を変えていくことが重要だと思います。給付型奨学金を拡充し、高等教育の学費を大幅に引き下げることができれば、たとえ出身家庭が経済的に豊かでなくても、進学することはこれまでよりもはるかに容易となります。
子どもに対する人権侵害である児童虐待については、相談体制の拡充、子育て世代への経済的支援など社会保障の充実、親の労働環境の改善など対策を強化すべきです。また、家賃補助制度の導入や公営住宅の増設で住居費負担率を引き下げ、子どもを実家から出やすくすることも、虐待に苦しむ若者を救うことにつながります。
「親ガチャ」という言葉にこれだけ反響があるのは、格差と貧困が深刻化する中で、若者の人生が「親次第」で決まってもおかしくない世の中である、ということが広く共有されてきているからだと思います。それは若者への公的支援が決定的に不足し、ごく普通に学んで、生活していく上でも「親」や「家族」に依存せざるを得ない日本社会の問題点を示しています。すべての若者が出生に関係なく、自分の力で幸せな人生を切り開いて行けるような社会を政府・自治体は責任をもって実現すべきだと思います。