「親ガチャ」という言葉をご存じですか?
ネットやSNSだけでなく、最近はテレビの情報番組やワイドショーなどでもたびたび取り上げられていますから耳にした人も多いと思います。「子に親は選べない」「どんな家庭に生まれるかは運次第」を意味する造語で、くじ要素の強いカプセルトイの販売機が「ガチャガチャ」「ガチャポン」と呼ばれることから転じて、ソーシャルゲームなどのキャラクターやアイテムの入手方法を「ガチャ」と呼ぶのになぞらえた言葉だそうです。
「親ガチャ」という言葉は、なぜここまで広まったのでしょうか。そこには大きな社会的要因があるように思います。それは今の日本社会では、親の経済力や行動によって人生が決まってしまうと子どもや若者が感じる場面が増えてきているということです。
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真っ先に思い浮かぶのは、進学にかかる学費の問題です。他の高等教育機関よりは安いとされる国立大学の学費でさえ今は年額50万円を超え、初年度納付金は80万円を上回っています。私立大学や専門学校ともなれば、初年度納付金は100万円以上です。この金額を学生が自分で稼いで支払うのは、不可能とまでは言えませんが容易なことではないでしょう。そのため親の経済力に依存せざるを得ません。
そもそも大学の学費が上昇してきたのは、日本の教育費における根強い「親負担主義」と深く関わっています。第二次世界大戦後に広く普及した日本型雇用は、終身雇用と年功序列型賃金制度を特徴としていました。初任給は安くても、子どもが高校や大学に通う頃には入学金や授業料を出してあげられるぐらい昇給する、という賃金制度が学費の上昇を後押ししたのです。このような親の賃金体系と教育費の結び付きは、「学費の支払いは親の役割」という考え方が広く普及していたことを意味します。
しかし1990年代後半以降、経済のグローバル化が進行する中で、派遣労働者など非正規雇用の増加や正規雇用労働者の賃金抑制が実施され、年功序列型賃金制度の恩恵にあずかれる労働者は確実に減少しています。子どもが大学に通う頃になっても、かつてのように所得が上昇していないという家庭が増えているのです。
親の学費負担が困難になったことによって、奨学金利用者が増えました。大学生の奨学金利用率は、1996年度の21.2%から2018年度には47.5%まで上昇しています。現在、奨学金の大部分は貸与型ですから、卒業後に返済する必要が生じます。その多くは200万~300万円で、中には500万円以上の返済をしなければならない場合もあります。
さして高くない初任給から毎月約1.5~3万円を返済することは容易ではありません。しかもそれが15〜20年続きます。奨学金返済のために、望んでいた結婚や出産が経済的に困難となって苦しんでいる人も少なくないと聞きます。
一方で、親が学費・生活費を払って奨学金を利用しなかった人には、その負担は全くありません。返済に苦しむ人の中から、「親が学費を払ってくれた人はうらやましいなあ」という気持ちになる人が出てきても不思議ではないでしょう。
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経済的な面だけではありません。近年、親による子どもの虐待も大きな社会問題となっています。
警察庁の発表によれば、20年に検挙した児童虐待は2133件、被害にあった18歳未満の子は2172人と共に過去最高となりました。加害者で最も多いのは実父、次が実母です。虐待の疑いで警察が児童相談所に通告した子どもの数も、過去最多の10万6991人と初めて10万人を突破しました。
こうした児童虐待の表面化には、社会的関心の高まりから人々の「まなざし」が変化したことが関わっています。これまでは「家庭内でのしつけ、いざこざだろう」と看過してきた近隣宅の様子などを「虐待かもしれない」と疑うようになり、児童相談所や警察に情報提供するようになりました。そうした中で、親から受けてきた行為が「虐待」だと認識できるようになった子が、SNSなどで「親ガチャに外れた」「親ガチャに失敗」などと言及する例も増加しているのです。
このように「親ガチャ」がテレビやSNSで取り沙汰されるようになった一方で、反論も多く行われています。「努力したくない若者の言い訳だ」「自分の不幸を親のせいにしているうちは幸せな人生を生きることはできない」「出生を呪っても環境は変えられないのだから与えられた条件で頑張るしかない」など、若者の努力不足や自己責任を強調するものが多く見られます。
また、「産み育ててもらったことに感謝すべき」「生まれてこられただけ幸運と思え」「子は親を選んで生まれてくるものと考えるべき」など、親への感謝を求める意見や、厳しい現実をむしろ積極的に受け入れるよう求める意見さえあります。
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しかし、これらの反論には無理があると思います。若者の努力不足や自己責任を強調するような人には、裕福な家庭に生まれて高い学歴を獲得していたり、起業などで社会的地位を築いていたりする人が少なくありません。果たして、こうした人たちは過酷な家庭環境で育たざるを得なかった子の大変さを本当に理解できているのでしょうか? もしかしたら恵まれた環境で育った自分が、そうではない育ち方をした若者の努力不足や自己責任を追及しているのではないか――という想像力をもっていただきたいです。
中には「貧困家庭に生まれても努力で成功した人もいる」と言う人もいるでしょう。そうした事例が一定数あることは私も認識しています。しかし貧困家庭という条件は同じでも、本人が努力できる環境であったか否かは問われるべきではないでしょうか。本連載第18回「ヤングケアラー問題が深刻化している」で書いたように、家族に病気や障害をもつ人がいて、そのために家事や介護を担っている18歳未満の子(ヤングケアラー)も大勢います。毎日4~7時間も家事や介護を担わなければならず、勉強やスポーツなどに取り組む時間を大きく奪われています。また、幼児期から虐待やネグレクトを受け続けてきた子は自己肯定感をもちにくい傾向にあり、そうでない子たちと同じように努力することは容易ではないでしょう。