この問題を考えるうえで、最近とても参考になる本に出会いました。朝日新聞の編集委員をつとめる氏岡真弓さんの著書『先生が足りない』(岩波書店、2023年4月)です。本著ではこの問題を長期にわたって取材してきた著者によって、教員不足が生み出された社会的背景が丁寧に考察されています。
私が注目したのは、11年1月10日付の朝日新聞記事「先生欠員 埋まらない」に対する反響です。この記事は1面トップに掲載されたにもかかわらず、読者からの反応はほとんどなかったそうです。この反響のなさについて氏岡さんは、当時不足していたのが正規教員ではなく非正規教員だったからではないか、と推測しています。正規教員が病気や出産で休んでも、その穴埋めをする非正規教員がいないことが問題点であったため、教員不足の社会問題化が遅れたと論じます。
また教員不足が社会問題となるのが遅れた別の理由として、教員の労働問題ばかりがクローズアップされて、子どもが学ぶ権利の問題として捉える視点が弱かったことも挙げています。子どもにすれば「先生がいない」ということは、学ぶ時間、育つ時間そのものが奪われていることを意味します。そのことの重大さを、周囲の大人たちが十分に認識してこなかったことが社会問題化を遅らせ、事態を一層深刻化させたと氏岡さんは考察しています。
同書を読むことで、教員不足問題の構造的要因を多面的に考えることができました。非正規教員の不足を報じた記事への反響のなさは、日本社会に深く浸透している非正規雇用労働者への差別意識を示しているようにも思えます。
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2000年以降、公教育予算を削減する新自由主義政策として、当時の政府与党や財界支配層が進めた義務教育費国庫負担制度の改悪や国立大学の法人化は、正規教員を減らして非正規教員に依存する状況を生み出しました。それが今日、教育の不平等を促進したばかりでなく、教員の不足をももたらしたとなれば、強く批判されなければなりません。加えて、非正規教員の増加に対し、社会的抵抗が十分に行われたかどうかも検証する必要があると思います。コスト削減という名目の下、社会の側に非正規教員への依存を「やむを得ない」と受け入れてしまった面があったなら、そのことも問い直さなければなりません。
誤解しないでいただきたいのですが、私は非正規教員そのものを否定的に捉えているのではありません。さまざまな事情で非正規職を選んでいる人もいますし、正規教員と全く遜色ない教育実践をされている人が多数いらっしゃることもよく知っています。ここで言いたいのは教育予算削減のために正規教員採用を抑制し、非正規教員依存の状況をつくり出してきた教育政策の瑕疵(かし)と、それを受け入れてきた社会意識への批判です。
氏岡さんがおっしゃるように、教員不足を「子どもが学ぶ権利の問題」として捉えることも重要です。公教育、特に義務教育では、すべての子どもの「学ぶ権利」を守ることが必要ですから、教員不足という現在の状況は教育の危機――そして将来の担い手を育成する条件に欠落が生まれているという点では、日本社会の重大な危機を示していると思います。
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教員不足に対する今の政策は、前述したように単に不足人数を揃えるための「数合わせ」であり、教育現場に悪影響を与える危険性があるばかりでなく、教員不足を引き起こしたこれまでの政策への反省を欠いています。この「数合わせ」政策は、「低コストで人数を揃える」という点では、非正規教員を増やしてきたコスト削減政策とよく似ています。
コスト削減によって非正規教員依存の構造をつくり出し、正規・非正規を問わず教員の労働環境の過酷化に歯止めをかけてこなかったことが、教員免許取得者における採用試験受験者数の減少、教員免許そのものの取得者数減少といった事態を引き起こし、ついには「子どもの教育を受ける権利」を保障できない事態にまで至っている現実を、政府や地方公共団体はもっと真剣に受け止めるべきです。
教員不足を解消する「数合わせ」のために、教職課程や教員免許の価値を引き下げることは間違いです。教職課程で学び、教員免許を取得した学生たちが希望を持って教員を志望できる労働環境の整備を早急に行い、「教員という存在」や「教育という仕事」の価値を引き上げる努力を開始することが、日本社会に強く求められています。