そのとき、出撃した2艇の特殊潜水艇のうち1艇は、対潜網をかいくぐってディエゴ・スアレス湾に侵入し、魚雷攻撃でイギリス海軍の戦艦「ラミリーズ」を大破させ、タンカー「ブリティッシュ・ロイヤルティ」を撃沈するという大戦果をあげていた。
しかし、それらの戦果は「敵艦はいない」と誤断していた日本軍部では広くは共有されず、攻撃によって生じた戦果は戦後、イギリスのチャーチル首相が「回顧録」で明らかにするまで世界的にも知られなかった。
一方、2艇のうち1艇は湾外で座礁し、乗組員の2人は漁民に助けられながらマダガスカル島に上陸した後、徒歩で島北部に向かったとみられている。
なぜ島北部に向かったのか?
そこが潜水母艦との合流地点に指定されていたからである。
私はディエゴ・スアレス湾内の漁村で帆掛け船をチャーターし、まずは特殊潜水艇が座礁したとされる現場へ向かった。
湾口外の北方にある無人島に上陸し、石灰石でできた岸壁を徒歩で40分ほど歩いていくと、外洋側の岸壁近くの波打ち際にさびた鉄の塊が横たわっているのを見つけた。漁民や現地助手からは「あれが日本軍の特殊潜航艇だ」との説明を受けたが、強風で波が高く、水深も1メートル以上あるので近づくことができない。残念ながら、それが本当に座礁した日本海軍の特殊潜航艇かどうかを確認することはできなかった。
近くの漁村に立ち寄ると、初老の漁師から「父親がこの浜で東洋人2人と出会い、食料を与えて手こぎ船でマダガスカル島の本島に運んだ」という話を聞いたので、私はかつて日本兵がそうしたように、漁師の案内で手こぎ船に乗って本島へと戻った。そして一度アンツィラナナまで戻ってランドクルーザーをチャーターすると、今度は2人の乗組員が歩いたという島北部までの道のりを車でたどることにした。
北部へと続く「道」は、いわゆる道路ではなく、焼けつくような日差しで岩肌がむきだしになった、半砂漠化した荒れ地だった。大地を覆っているのは岩が割れてできた尖った石で、ランドクルーザーはタイヤが2度もパンクした。
途中の村で1泊し、たどり着いたアンドラナボンダラニナ村では、82歳の長老ドミニクが過去の記憶を述懐してくれた。
「大人たちが英語もフランス語も話さない2人がいると大騒ぎしていた。彼らは仏語の『ジャポン』ではなく、『ジャパン』と言った。学校の校長が町まで通報しに行くと、まもなくイギリス軍が村に押し寄せてきた」
2人は北部の荒野でイギリス軍に囲まれ、降伏するよう求められたが応じず、銃撃戦の末、殺害されたとみられている。
83歳の最古老ベジルは私の手を握って言った。
「イギリス軍が2人を射殺したとき、村人が借り出されて2人を埋葬するよう指示された。私は怖くて眠れなかったよ」
そのとき、島北部の沖合では、潜水母艦が2艇の特殊潜航艇の帰りを待ち続けていた。
通信兵だった石川の日誌には次のように記されている。
《昨日に引き続き筒捜索をなす。(中略)手掛りなくむなしく過す。筒との連絡電波及び予備電波まで一生懸命聴取を持続するも、それらしき感度なし。あるいは未だに港内に待敵しているのではあるまいかとも思われる。》
《〇〇〇〇(午前零時)浮上、引き続き筒の捜索。司令官より本日二三三〇(午後十一時三十分)にて捜索を打ち切るゆえ、本日は昼間も水上航行にて(実測一五浬)筒を捜索するよう電報来る。(中略)無事なれかしと祈る心はまさに切ない。》
私は村人たちの先導で、2人が最後にたどり着いたという小高い丘に案内してもらった。
乾いた風が吹く丘の向こう側には、かすかに薄い青色をした海が見えた。その先のはるか沖では潜水母艦が彼らの帰りを待っていたはずだった。
彼らは海辺にたどり着き、その先どうするつもりだったのか。泳いで向かうつもりだったのか。本島に渡ったときと同じく、手こぎ船を借りようとしたのか。
しかし、2人は丘で射殺され、潜水母艦は6月2日で沖合での捜索を打ち切り、日本へと戻った。
マダガスカル攻撃の状況を日誌に記した通信兵の石川はその後、ソロモン海戦に転戦し、1944年5月、乗っていた潜水艦が撃沈され戦死していた。
しかし、そこである奇跡が起きる。
敗戦に伴い機密性の高い通信兵の記録の多くが焼却処分されるなか、石川は戦死する半年前に宮城県の自宅に一時帰宅した際、真珠湾攻撃やディエゴ・スアレス攻撃について記された日誌を遺書代わりに机の下に残して次の戦地へと赴いていたのだ。戦後、教師になった石川の娘が1989年、日誌のコピーを朝日新聞社へ送り、「潜水艦通信兵の日誌発見」の記事が世の中に出た。
忘却を免れたいくつもの青春。
彼らが見た「アフリカ」は、果たしていかなる土地だったか。
両目を閉じて思いを巡らせようとした瞬間、上空を猛禽類が「カーン」と高い声で鳴きながら海のほうへと飛んでいった。
(2014年11月)