私がその話を聞いたのは職業記者になって間もない2001年の夏だった。
太平洋戦争の開戦時、日本海軍の主力空母「加賀」から九九式艦上爆撃機に乗って真珠湾攻撃に参加し、生還した元搭乗員にインタビューをしていた。
「飛行機乗りも勇敢だったが、潜水艦乗りもそりゃあ、勇猛だったさ。なんてったって潜水艦に乗って、アフリカにまで攻めに行ったんだからな」
「アフリカに!?」
調べてみると、確かに日本軍は開戦直後、祖国から1万キロ以上も離れたアフリカの南東に浮かぶマダガスカルの港湾都市ディエゴ・スアレスを攻撃していた。
攻撃に使用されたのは、「特殊潜航艇」と呼ばれる2人乗りの小型潜水艇。全長約24メートル。通常は潜水母艦の「背中」(甲板)に乗って移動し、戦域近くで潜水母艦を離れ、標的に近づいて魚雷攻撃をすることを目的としていた。
一方で、その「秘密兵器」には巨大な欠陥があった。
潜水母艦を離れて一度出撃すると、帰還することが極めて難しい――事実上戻れないのである。真珠湾攻撃では5艇、ディエゴ・スアレス攻撃では2艇出撃していたが、いずれも帰還できなかった。
なぜ、マダガスカルを攻撃したのか。
1940年代初頭、マダガスカルはフランスの植民地だった。しかし、第二次世界大戦が勃発し、フランスがドイツに占領されると、マダガスカルも親ドイツのヴィシー政権の影響下に入る。
これに危機感を抱いたのが、イギリスだった。当時、日本軍は真珠湾攻撃を成功させ、インド洋での覇権獲得に乗り出そうとしていた。万一、親ドイツ政権が日本軍にマダガスカルへの駐屯を許可してしまうと、西インド洋やアフリカ大陸が日本軍の攻撃にさらされる危険性が出てきてしまう。
そこでイギリス海軍は1942年5月、マダガスカルの港湾都市ディエゴ・スアレスを攻略して占領すると、そこに艦隊を配置した。日本軍はこれを受け、インド洋に展開していた潜水艦部隊をマダガスカル沖へと派遣したのだ。
日本兵たちが初めて目にした「アフリカ」。
私は元搭乗員の話を聞きながら、いつか自分がアフリカに行くようなことがあれば、日本兵が歩んだ道のりを自らの足でたどってみたいと考えていた。
2014年11月。私はマダガスカルの首都アンタナナリボから、北部の港湾都市アンツィラナナ(旧称ディエゴ・スアレス)へと向かった。
人力車が行き交う街なかにある歴史館を訪ねると、83歳になるカッサム・アリは、日本軍が攻めてきた日のことを克明に記憶していた。
「私は当時、12歳だった。日本がアメリカに戦争を仕掛けたことは知っていた。でも、まさかアフリカにまで攻めてくるなんて誰も思わなかった。大人たちは何が起きたのかわからなくて、街じゅうが大混乱だったんだ」
アンツィラナナの地元紙「ラ・トリビューン・ドゥ・ディエゴ」では前年の10月、日本軍の襲撃をテーマにした特集記事を写真付きで掲載していた。
編集長のフィリップ・ゼリオンは取材に答えた。
「今では多くの世代がアフリカで戦争があったという事実を忘れてしまっている。今、日本人を憎んでいる人はほとんどいない。ただ、歴史は歴史として語り継がなければいけないと思う」
1942年5月。日本軍はマダガスカル沖に、それぞれ特殊潜航艇を搭載した3隻の潜水母艦(伊16潜、伊18潜、伊20潜)を潜ませていた。5月29日に潜水母艦に搭載していた航空機を飛ばしてディエゴ・スアレス湾に敵艦が停泊しているのを確認すると、5月30日の日没後に特殊潜航艇で攻撃することを決定する。当初は3艇の特殊潜航艇で攻撃する予定だったが、1艇が故障で出撃できなくなったため、2艇が日没後に沖合からディエゴ・スアレス湾内に向けて発進した。艇には、山口県出身で25歳の秋枝三郎と広島県出身で29歳の竹本正巳、香川県出身で21歳の岩瀬勝輔と福井県出身で25歳の高田高三が、それぞれペアで乗り込んだ。
直後、特殊潜航艇を悲劇が襲う。
湾内の偵察を続けていた航空機が、実際にはそこに敵艦がいたにもかかわらず、「湾内に敵が見えない」と誤断し、その報告を受けた司令官が「特殊潜航艇に潜水母艦に戻るように伝えよ」との命令を下したのだ。しかし、すでに出撃してしまっている特殊潜航艇と連絡をとることは難しい。
当時、潜水母艦「伊16潜」に乗艦していた通信兵石川幸太郎の艦内日誌が残っている。
石川の死後、遺族らによって刊行された『潜水艦伊16号 通信兵の日誌』(草思社)によると、潜水母艦内では特殊潜航艇の出撃直後、期待と絶望が激しく交錯していた。
《ディエゴ・スアレス湾を襲撃すべく、第一潜水隊(伊一八欠)は潜航しつつ港外六浬付近まで接近する。時刻は三十日午後十時。総員潜航配置に就く。司令塔には艦長と艦付が来ている。外はまだ明るい。潜望鏡を上げて付近を捜索した後、二人に向かって「二人ともよく見ておけ」と言って潜望鏡を交代する。彼らはあと二時間の後、進入すべき港口付近の地勢を深く心に刻みつけたろう。しばらくの後、「終わりました」と言って潜望鏡より離れる。
艦長、航海長より収揚事項に就き、種々注意やら打合せを行った後、最後に艦長より「しっかりやれ」との激励の言葉を与えられて、潜航艇に乗り組んで行った。(中略)
交通筒も閉鎖され、電話線も切断。そして二十七分、最後のメインバンドを切断。水中聴音器により筒(筆者註・特殊潜航艇のこと)発進を確認。(中略)
ああ、なんのためぞ。過去三箇月の訓練と、はるばるアフリカまで来たこの苦労。今こそやっと報いられたようにホッとする。(中略)
でもまだ早い。筒の収揚という大作業とその戦果が知れないうちは、不安で不安で仕方がない。》
《午前三時、しかし自分はここまでで、あとは書く気はしない。なぜなら、そのとき伊一〇潜からの電報で、港内飛行偵察の結果、敵在泊せず、筒に引き返せの電報が来たからである。
万事休すかな!! 張り切った空気が破れる。今はもうすべてが水泡に帰したのである。意気地がないような、口惜しいような、不安な思いである。(中略)
筒との連絡は全然ない。引き返せの電も了解しない。収揚配備点に来て付近を捜索するも手掛りなし。ついに日の出になったので午前十一時半、潜航する。筒の収揚は、とうとう今日はできなくなった。(中略)。筒乗員も今頃は何をしているだろう。心配だ。》