台湾少年工たちの戦後
三浦 『戦争とバスタオル』の中では戦時中、いわゆる毒ガスを作っていた神奈川県寒川町にあった「相模海軍工廠」が出てきますね。実は私はつい最近、そこから少し離れた厚木基地の近くにある「高座海軍工廠」を取材していたんです。海軍が1943年、B29を迎え撃つための戦闘機「雷電」などを造るために設置した工廠で、そこで働いていたのは主に13歳から19歳までの約8400人の台湾から送られてきた少年たちだったんです。そんな彼らの「戦後80年」を描きたいと。
安田 8400人もいたんですか……。
三浦 日本で働きながら勉強すれば、上級学校の卒業資格を与えられるという触れ込みに、多くの学業優秀な台湾の少年たちが応募し、厳しい選抜試験を受けて日本に渡ってきていました。戦争末期、彼らは激しい空襲にさらされながらも必死に戦闘機や人間爆弾と呼ばれた「桜花」などを製造し、約60人が空襲などで亡くなったとされています。そんな彼らは1945年8月15日、日本が敗戦すると同時に日本人から中華民国人になり、日本に放置されてしまうんです。その後彼らはどうしたかというと、自らで自治組織をつくって国や県と交渉し、最終的には退職金や台湾に戻る船に乗る権利を勝ち取って、1945年の秋から46年の2月にかけて台湾に帰っていくんです。帰りのその船には台湾で初の民選総統になった李登輝も乗っていました。彼らは戦後、日本で学んだ技術を活かして台湾の復興に貢献し、今の技術立国・台湾の礎にもなっているんです。
安田 とても興味深いですね。そういったまだ知られていない物語というものが、日本には眠っているのでしょうね。
三浦 台湾少年工たちの宿舎があった神奈川県大和市をめぐって高齢者たちの話を聞くと、朝早くから中学生くらいの少年たちが大声で軍歌を歌い、隊列を組んで工廠に向かうものだから、当時は「スズメ部隊」と呼ばれていたそうです。私は、当時を記憶している人たちに直に話を聞ける最後の世代のルポライターとして、少しでも多くの話を自らの目と耳で記録し、後世に書き残していきたいと考えているんです。
安田 そうですね。われわれノンフィクションライターの仕事はいろんな側面がありますが、一つは記憶を紡いでいくというのが大事な役割だと思います。
「排除」しているのは誰か
三浦 安田さんは社会派のノンフィクションライターとして、これまで本当に多くの作品を発表していますよね。ちょっと唐突かもしれませんが、安田さんのテーマを二文字で表すとしたら一体どんな言葉なのでしょうか?
安田 最初からそう思っていたわけではないのですが、ふり返って考えてみると「排除」ということになるのかもしれません。1990年代終わりから2000年代の初めに書いた、初期の本というのは、主に外国人労働者のことなんです。当時、少なくとも東京で外国人労働者というのは、白人のいわばエリートビジネスマンのイメージでした。ところが地方に行くと、畑や工場で働いている人がアジアや中東の外国人ばかりだったんです。メディアではまったく語られていなかった現実を取材しないといけないなと思ったのが最初です。今に至るまで、メディアの主流から、あるいは人々の視界から漏れていった人々や事象を取材したいという思いが一貫してあるんです。社会というのは、常に何かを犠牲にして生き延びているという側面がありますから。
三浦 安田さんが昨年出版した『地震と虐殺』の帯には、「民衆を暴走に駆り立てた真犯人とは誰だったか」とありますね。朝鮮人を虐殺した真犯人というのは、あるいは「行政」だったんじゃないか、と。
安田 『地震と虐殺』で描きたかったのは、「関東大震災が、朝鮮人の虐殺を引き起こしたのではない」ということでした。関東大震災の前年、つまり1922年にも、新潟県の山奥・中津川で朝鮮人の虐殺が起きているわけです。そうしたことが起きる仕組みというのは、やはり日本が近代国家として歩んでいく中で着々とつくられてきたのではなかったかと。
現在ネット上で流布しているクルド人に対する差別も同じようなことが起きていると思います。埼玉南部地域のクルド人は30年前から住んでいて、たかだか2000人くらいで、特に着目されてはいなかった。ところが、この2年で急速にネット上での差別が盛り上がっていった。そこには極めて人為的なものを感じます。そして、それに乗っかって自警団と称する連中が出てきて、川口の街の中をパトロールしている。
三浦 100年前の関東大震災のときに、デマで朝鮮人が虐殺されたときと同じ「空気」のようなものを感じますね。
安田 そうなんです。彼らはネット上で同志を集めて、護身用の武器を購入するみたいなことを言っているわけですよ。まだクルド人を殺してはいないけれども、地域を守ると称していることもあわせて、自警団の発想は100年前とまったく同じなんです。違うのは、関東大震災のときの自警団は、地元の青年団や消防団が中心でしたが、今の自警団はネットで集められた、地元とは関係ない人たちなんだということ。東京や神奈川からわざわざ越境してきて、夜に町を練り歩いていたりする。「自警」というよりも、外国人への嫌悪と差別を煽りたいだけなのでしょう。
三浦 安田さんは、早い段階からヘイトスピーチの問題に取り組んでこられて、SNSでも激しく攻撃されたりしていますが、それでもめげずに続けていらっしゃいますね。一方で、大手メディアには今、批判されることを極端に嫌う傾向が見られます。
安田 今の大手メディアは、批判されることを恐れすぎているのではないでしょうか。「戦後80年」というワッペンはつけても、その内実は過去の記事の焼き直しのような内容が多いなと感じます。会社の「顔色」を見ないといけなかったり、「時代が求めていない」ということを言い訳にしたりするメディアの友人もいます。私も「何かネタないですか?」とよく聞かれるのですが、それはつまり、戦争というものを一つのネタでしか考えられなくなっているということだと思います。確かに80年というのは、一つの区切りかもしれないけれども、継ぎ目なく毎年8月15日を迎えている人もいる。それを考えると、やるべきことは何だろうかと考えてしまいます。