「人権」「民主主義」「法の支配」を標榜する欧州の国際機関・欧州評議会(Council of Europe)により2011年に採択された、女性に対する暴力とDV(ドメスティック・バイオレンス)の根絶をめざす条約のこと。正式名称は「女性に対する暴力及びDV防止条約」(Convention on preventing and combating violence against women and domestic violence)だが、女性に対する暴力事例が耳目を集めることの多かったトルコのイスタンブールで条約署名式が行われたので、「イスタンブール条約」と呼ばれる。2014年に発効し、欧州評議会47カ国のうち、ロシアとアゼルバイジャンを除く45カ国が署名を終え、2021年8月現在34カ国が締約国となっている(欧州連合〈EU〉は署名のみ)。
この条約は、国連の「女性に対する暴力の撤廃に関する宣言」(1993年)など、1990年代に「女性に対する暴力は人権侵害である」をスローガンに積み上げられてきた成果をふまえ、さらに、それまで女性に対する暴力の一類型として扱われていたDVを初めて前面に打ち出した法的拘束力のある国際人権文書である。
12章(81カ条)から成る条約の柱となるのは、女性に対する暴力およびDVに関して締約国に求められる4つの“P”である。すなわち、
①防止(Prevention):メディアや教育を通じて女性に対する暴力に寛容なステレオタイプをなくすために意識啓発を行い、被害者と関わる専門家を訓練すること。
②保護(Protection):保護命令や、シェルター・ホットライン・カウンセリング・医療・精神保健サービスなどにより、被害者や子、証人を保護する措置を講じること。
③訴追(Prosecution):女性に対する暴力およびDVへの刑法上の対応を強化し、精神的暴力、ストーカー行為、身体的暴力、レイプを含む性的暴力、強制結婚、強制的性器切除、および中絶・不妊手術の強制を犯罪化すること。
④政策(Policy)協調:締約国がNGOなどと協力して包括的・統合的な政策を推進すること――である。
女性に対する暴力撤廃のモデル法ともいえる条約で、特に注目されるのは、身体的・性的暴力事件における加害者の捜査や訴追に関して、被害者による通報や告訴がなくても、あるいは告訴の取り下げがあっても職権により手続きを進めることができるとしていることや、レイプを含む性的暴力について「同意なしの性的行為」と定義していることである。さらに当局等による暴力だけではなく、私人による暴力であるDVに対しても、国が暴力行為を防止、調査、処罰および補償するために必要な立法その他の措置をとる義務を負うことが明確にされた。DV被害者は特に傷つきやすく、国には被害者や子どもを保護するための積極的な関与が求められるのである。
同条約実施を監視する機関として、締約国政府代表から構成される「締約国委員会」のほか、独立した専門家から成る「女性に対する暴力およびDVを撤廃する行動に関する専門家グループ(GREVIO)」が設置され、締約国から提出された条約実施に関する報告書の検討を行っており(国別評価)、すでに半数の17カ国が最初の評価を終えて評価報告書が公表されている。条約に沿った法改正を行った国もある。
同条約がめざしているのは、女性差別の結果である男女の不均衡な力関係によりもたらされる、あらゆる形態の暴力の根絶である。一方で、その起草過程において、急務であったDV対応の強化を進めるにあたり、子どもや高齢者とともに男性にも条約の諸規定を適用することを締約国が選択できるとした。起草に関わったNGOのなかには、この適用対象の拡大を、女性であることを理由に女性に向けられる「女性に対する暴力」という構造的な差別に特化して取り組む条約の意義を損うものという批判もある。また、女性の権利をこれ以上保障すれば、家族の価値を損なうことになるとの保守層の批判も強かった。保守層からは、条約の差別禁止規定に「性自認」「性的指向」が含まれていることへの反発もあり、ハンガリーやポーランドなどでは条約に否定的な動きが強い。特にトルコでは、不貞行為や婚姻外の性関係など家族の名誉を汚す行為に対する「名誉犯罪」の正当化を認めないとする規定が、文化・慣習やイスラム法との関係で問題となった。トルコは、2018年の評価報告書で女性に対する暴力撤廃に向けた努力の強化などの厳しい勧告を受けた後、2021年3月にエルドアン大統領が条約離脱の意向を表明し、7月に離脱している。
日本は欧州評議会のオブザーバー国であるため、同条約を批准することは可能であるが、実現の見通しは低い。しかし、欧州において10年にわたり積み上げられてきた女性に対する暴力の根絶をめざす取り組みから学ぶところは大きい。