所有関係ではない形で何かを共に生産し、分かち合う実践、その中で生み出される共有された資源を指すとともに、それを含む形で生産・再生産される人々の関係と感覚のこと。「共有」とは異なり、「誰のものでもあり、誰のものでもない」ということ。
コモンズの典型として挙げられる身近な事例の一つが、日本に古くからある「入会地」である。「神様からの預かり物」であるとして誰にも所有されない土地のことだ。人々はそれを共同で利用し、管理してきた。コモンズとは、入会地とされる土地だけでなく、そこでの人々の共同の実践、関係、感覚の総体を指す概念である。
しかし、明治時代に西洋の「所有」概念が導入されると、多くの入会地が個人に分割されたり、政府が管理する国有地になったりした。残った入会地も、「共有」という一つの所有形態をとることになる。人々はコモンズの感覚を徐々に忘れていった。
この入会地のように、所有関係ではない形で何かを共に生産し、分かち合う関係や活動としてのコモンズは、人類の歴史の中で普遍的に存在してきた。
近世までのイギリスにも共有地があった。それは、名目上は王のものだったとしても、実質的には誰もが自由に薪や果物を得たり、牧畜をしたりする場となっていた。
しかし資本主義は、こうしたコモンズを解体することから始まる。16世紀に始まる、領主や地主が共有地に柵をめぐらせて私有地とした「エンクロージャー(囲い込み)」である。こうして人々は、コモンズから暴力的に切り離されたのである。
コモンズから分離された人々は、もはや自分の労働力を売ることでしか生きられない。労働の自律性は失われ、損得勘定抜きの共同の生産は姿を消し、コモンズ的な関係は「近代的核家族」という非常に小さな単位のみに閉じ込められてしまった。資本主義は、すべてを商品化していく。
しかしその一方で、現在でも、私たちの社会や生活の中にはコモンズが広く埋め込まれている。
例えば、よくある「持ち寄りパーティー」のことを考えてみよう。それぞれが各自材料を持ち寄り、集まった材料を分担して調理し、出来上がったご飯をその場で分かち合って食べる。コモンズは、この瞬間の中にある。作られた食事のことだけではない。人々が集まり、おしゃべりをし、おせっかいや気遣いが混ざり合うときに現れる楽しみ、その中で作られる共同の関係こそが、コモンズなのである。
すべてが私有化された現代の大都市の中でも、コモンズは作られ続けている。
南米ベネズエラの首都カラカスでの事例を見てみよう。ベネズエラを襲った金融危機によって、カラカスの中心部で行われていた大規模なタワーマンションの建設が工程の9割が終わった段階で中断され、放置された。すると、このマンションに都市の貧困層が集まり、生活の場とし始めたのである。
彼らは一緒に建物を掃除し、木を植え、手すりを設置し、共同スペースとリフトを造った。建物は進化し続け、住民は居住権を獲得するために自治組合を結成する。建設途中のタワーマンションに現れたこのコモンズは、「トレダビッド」と呼ばれる。こちらのサイトでは、その様子を記録した素晴らしい写真を見ることができる。
大きく言えば、多様な人々の出会いによって生成され活性化する都市も、インターネットも、実はグローバルな協調を通じて日々新たに生み出され続けているコモンズそのものなのである。しかし資本は、こうして生成され続けるコモンズをすぐに私有化し、商品化する。都市の活気は家賃の上昇につながり、インターネットは広告と使用料に侵食され、エンクロージャーされる。
私たちは、どうすれば自分たち自身の生活を描き出し、資本に奪われた自律性を取り戻すことができるのだろうか。私的所有と競争が唯一の価値・目的とされる近代的な生活とは異なる生活様式を創造する運動、実践を、どのように構想できるのだろうか。そう問いかけるとき、コモンズというキーワードは重要な意味を持ってくるのである。