山口県宇部市の東部、床波(とこなみ)海岸にかつて存在した海底炭鉱。「ちょうせいたんこう」と読む。1914年に創業し、1945年の終戦とともに閉鉱した。1942年に、183人の労働者(うち136人が朝鮮人)が死亡する落盤・水没事故が起きた。今も遺骨がそのままとなっているため、遺族や地元市民団体が遺骨の回収を国と宇部市に求めている。
現在の宇部市、山陽小野田市にかけての東西10キロには、かつて「宇部炭田」と呼ばれる炭田が分布していた。江戸時代に採掘が始まり、明治中頃以降は海底炭鉱の開発が進んだ。最盛期の1940年代には、全国の生産量の7%ほどを占めるほどになった。しかし戦後は石炭から石油へのエネルギー革命によって石炭産業は衰退し、1967年には宇部炭田のすべての炭鉱が閉山した。
1937年に日中戦争が始まり、戦争が拡大すると、日本政府は不足する国内の労働力を朝鮮人の強制的な戦時労務動員によって埋める政策を実施した。
朝鮮への玄関口である山口県にも多くの朝鮮人が動員され、過酷な炭鉱労働などに送り込まれた。中でも長生炭鉱は、その危険さゆえに日本人労働者が就労を嫌がったことから、突出して朝鮮人が多く、「朝鮮炭鉱」と呼ばれることもあった。
落盤・水没事故(炭鉱用語で「水非常」)は、1942年2月3日朝、地上にある炭鉱の出入り口(坑口)から約1キロ沖合で発生した。坑道内に作業員たちが残されていたが、二次災害を防ぐなどの理由から救出されることなく、そのまま坑口が閉じられた。終戦後の閉鉱とともに、所有していた企業も消滅した。
1991年、市民団体「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」が結成され、1993年以降は毎年、韓国の遺族とともに追悼行事を行ってきた。2013年には市民の寄付により追悼碑を建立した。その後は、遺骨の回収を求めて宇部市や国と交渉を重ねてきた。
2005年の日韓合意で、日韓両政府は戦時中の朝鮮半島出身の労働者、軍人・軍属の遺骨返還について人道主義の見地から取り組むことで一致しているが、長生炭鉱については、国は「技術的に困難」などとして遺骨回収の要請に応じてこなかった。
そのため同会では、市に確認した上で独自の遺骨発掘作業に踏み切ることを決定。作業のためにクラウドファンディングを募り、2024年10月13日までに1212人から857万6000円を集めた。
同年9月24日、同会は坑口を見つけるための掘削作業を開始し、翌日には坑口が発見した。さらに10月30日には坑口からダイバーが入って潜水調査を行い、200メートル地点まで進むことができた。内部に大規模な陥没などはなく、遺骨回収のための本格的な潜水調査が可能であるという手ごたえを得たという。同会では、継続して遺骨収集に向けて取り組みを進めていきたいとしている。