どんなに小さな個の物語にも、そこには大きな政治の物語が影を落としていて、それを見落としてはいけないと思います。
「新聞記者」であり「ルポライター」でもある
三浦 阿部さんの著書『ルポ 沖縄 国家の暴力 現場記者が見た「高江165日」の真実』を読んで、オスプレイの墜落現場に阿部さん自身が乗り込んでいって、記録者という新聞記者の立場を超えて、歴史の目撃者というか半ば「当事者」になっている、そんなところが非常にいいなと思いました。書籍は、時間をかけて練り込まれているから風化の速度が遅い。だから後世に伝わっていく。阿部さんは高江とか、辺野古とか、あるいはオスプレイの墜落について、それをどうして本に残そうと思ったんですか?
阿部 基地の負担を沖縄へ集中させていることで、オスプレイの墜落事故とかいろいろな理不尽なことが起きています。僕が「沖縄タイムス」でいくら記事を書いても、それが本土にはまったく伝わっていないという焦りや苛立ちがあります。だから、『ルポ 沖縄』は、書籍の形で無関心な本土の人にどうしても伝えたいと思いました。新聞記者はいつも、無駄を削ぎ落とす訓練をされているから、長い文章を書くのに最初はすごく苦労したけど……。
三浦 新聞で40行の記事にするときは、だいたい5個ぐらいのネタでいいんですよね。でも、本を書こうとするとそれでは足りない。数百倍も数千倍も取材しなければいけない。当然、取材が深く、長くなります。原発事故についても、東電や被災者、あるいは‟原子力村”の人たち、それぞれから多面的に取材する必要がある。そうやって現場や取材対象や深く取材をするようになると、新聞記事もそれに応じて磨かれたものになっていく。僕は本を書くことと新聞記事を書くことはお互いの領域を侵食しない、むしろそれぞれが高め合う効果があると信じています。
阿部 三浦さんの本は、文体もいいんですよね。端正で余白があるから、読者の想像を掻き立てます。本に仕上げるまで、どれくらい推敲を重ねているんですか?
三浦 僕はこれまで6冊のノンフィクション作品を発表していますが、全部、13回以上書き直しています。パソコン上で1文1文、13回以上書き直しながら、余分な文章を削ぎ落としていく。残すかどうかの基準は明確で「いるかいらないか迷ったら、それはいらない」。そんなふうにして時間と手間をかけないと、僕には人の心に届くような文章がまだ書けないんです。
阿部 それは若い記者にも聞かせたい金言ですね。
三浦 若い人たちに伝えたいことは、どんな本でもいい、若くて時間のあるうちに、そして目が健康なうちに、1冊でも多く本を読んでほしいということです。本をたくさん読むという行為こそが、文章をうまくシンプルに、なめらかに書く最良の方法だと思う。新聞記者の中には、ファクトを詰め込めばいい本になると思っている人もいますが、僕はそうは思わない。ファクトはいわば「横糸」なんです。そのファクトの横糸を文体の「縦糸」でしっかり織り込んでいくのが書籍であり、それをできるのが「書き手」と呼ばれる人々なんだと僕は信じています。横糸だけでは布にならないけれど、縦糸がしっかりしていれば、その横糸を変えることで、優れた書き手は様々な美しい「布」を織ることができる。
阿部 三浦さんは「新聞記者、ルポライター」という、謎の肩書を名乗っていますね。基本的に、ファクトを集めて淡々と書くのが新聞記者で、現場に行って自分の身をさらしながら取材をして書くのがルポライター。伝統的な考えの中では、矛盾した肩書だと思います。三浦さんは平気な顔して並べていますが……(笑)。
三浦 なぜ、僕がルポライターという肩書を使っているかというと、沢木耕太郎さんや鎌田慧さん、児玉隆也さんに憧れたという影響が大きいです。彼らはルポライターという肩書を名乗った。でも、ルポライターという言葉自体は、海外ではあまり聞いたことがありません。きっと和製外来語なんだと思います。ルポは、ルポルタージュというフランス語からきているように思えるし、ライターは英語。なんかカッコ悪いんだけど、それがまたいいんですよね。
阿部 ルポライターというと、やっぱり現場を歩く感じがありますね。
三浦 そうですね。スーツは着ないで、市井の人々の間に分け入って、その中から町や社会を見る。そういうルポライターのイメージに憧れたんです。
新聞記事の署名問題
阿部 最近では朝日新聞も沖縄タイムスも、署名の記事が増えてきました。記者が自分の視点で見たことを書くコーナーも増えています。そういう意味ではだんだん、時代が追いついてきて、新聞記者とルポライターが並んでいることに、違和感がなくなってくるように思います。僕は、中立とか、客観報道ということには、懐疑的なんです。自分の目で見たものを、公平さを保ちながら自分の責任で書き切るということのほうが、大事だと思います。
三浦 あえて署名をつけていない記事というのがまだ多いですね。記者の顔が見えない怖さを感じています。この政権はおかしいとか、この政権は素晴らしいという記事にこそ、署名を入れるべきじゃないかと思います。
阿部 「天声人語」のような「1面コラム」は伝統的に、新聞がしゃべっていることになっているから、署名を入れていないことが多い。だけど、全国で数社だけ署名が入っていて、沖縄タイムスがその一つなんです。やはり署名があると、書くことが違ってくる。私が福島に行きましたとか、伝承館に行きましたということを、自分の責任で書くと、読者から良いも悪いも含めて、反応がいい。政治家の批判をしたら、政治家から直接怒られるし、怒られたら「書いたのはこういう理由です」と言える。そこで、コミュニケーションも生まれるので、やはり署名は入れるべきだと思います。