近年政府が掲げる「女性活躍推進」などに見られるように、現在でも「ジェンダー平等」をうたいながら、「女性が活躍するためには女性がもっと頑張らないといけない」という話に置き換えられてしまうことが多々あります。このように、「ジェンダー」という男女の関係性全体を表す言葉を使っているのに、もっぱら女性の側に問題解決への努力が求められてしまうのは、かつての「婦人問題」のような捉え方が残っているということなのでしょう。
一方、「男女平等」と言ってもいいような場面でも「ジェンダー平等」という言葉を使うのがなぜかというと、いわゆる「普通の男性」「普通の女性」という二元的な性別の観念から何らかの意味で外れる「性的マイノリティ」と呼ばれる人々を排除しないようにしよう、という流れがあるからです。これは、「ジェンダー平等」が使われるときのポジティブな側面だと思います。ただし、これまで性差別、女性差別という言葉で指摘されてきた問題が過去のものになったわけではありません。「男女平等」と「ジェンダー平等」は重なりつつもまったく同じ理念ではないことを踏まえつつ、どちらが正しいという二分法に陥ることなく、問題となる事柄をなるべく適切に表せるように使い分けるのがよいと思います。
ジェンダー平等とバックラッシュ
――日本では2000年代に、保守系の政治家を中心とする「ジェンダー・バックラッシュ」と呼ばれるジェンダー平等へのバッシングの動きがあり、ジェンダーという言葉そのものすら排斥の対象となりました。なぜジェンダーに対して、そのような強い反発が起こるのでしょうか。
端的に言えば、明治期の国家主義や家父長制的な家族を復興させたい人々が、個人の人権や自由を重んじるフェミニズムや包括的性教育を敵と定めてキャンペーンを張ったということです。
およその経緯は以下のようなものでした。ジェンダー・バックラッシュ(バックラッシュ=反動、揺り戻し)の主な舞台になったのは、教育現場です。日本では1992年が「性教育元年」と呼ばれ、国際的なスタンダードである、人権を尊重し、伝統的性役割の解消も含めた包括的性教育へと行政も踏み出しました。
同時期に、いわゆるジェンダー・フリー教育も始まりました。これは、男性であろうと女性であろうと、まず人間としての共通性があるということを前提に、子どもたちを男らしさ、女らしさという固定観念で縛るのをやめよう、という教育です(なお、「ジェンダー・フリー」という言葉は和製英語に近いもので、個人的にはあまり有効な概念とは考えませんが、それはまた別の話です)。
ところがその10年後、安倍晋三元首相や山谷えり子参議院議員をはじめとする保守系の政治家たちが、日本の実践的な包括的性教育や、ジェンダー・フリー教育が「過激」で「行きすぎ」ていると非難し、激しいバッシングを繰り広げました。これがジェンダー・バックラッシュです。現在では、こうした活動が旧統一教会と密接に結びついていたことが次々に指摘されていますね。
バッシングする側は、知的障害のある生徒たちに性器の名称などを具体的に教える性教育を「不適切」であると決めつけ、教育現場を大いに萎縮させました。またジェンダー・フリー教育については、男女の根本的な性差をなくそうとするものだとみなし、「肉体的な性差を全面的に否定して、男でも女でもない“中性人間”を作り出そうとしている」といった妄想のもと、「男女を同じ更衣室で着替えさせろというのか」などと事実を捻じ曲げた非難をぶつけたのです。実際には、肉体的な性差の存在を否定したり、なくそうと主張したりする人はほとんどいなかったにもかかわらず、ジェンダー・フリー教育へのバッシングは続けられ、さらには「ジェンダー」という言葉自体が教育の場で使われなくなってしまいました。
現在はこうしたバッシングは退潮し、包括的性教育への機運も改めて盛り上がりつつあります。しかし男女平等政策の遅々たる歩みをみる限り、男と女は根本的に違うのだから社会的地位や役割も違うべきなのだ、という性別二元論の世界観が揺るがされることに耐えられない政治家たちは、おそらく相当数いるし、大きな影響力をもっていると思います。
「女性も男性も大変だ」で思考停止してはいけない
――ジェンダー平等を求める動きに対しては、男性の側からしばしば「それは男性差別だ」「男性だって大変なんだ」という声も上がります。
なぜ男性からそのような声が上がるかというと、ひとつには、特に2000年代以降、男性も含めて非正規雇用が拡大し、かつてのように安定した人生設計を描くことができない男性が増えてきたということがあると思います。男性であるがゆえに苦しい、という思いには、それなりの根拠があるのです。だからと言って、「女性の方が優遇されて自分たちが職を奪われていることが原因だ」といった認識は、やはり歪んでいると言わざるを得ません。現実は、男女の収入格差は根強くあるし、経済界でも政治の世界でも、社会の主流で実権を握っているのは男性ばかりです。不遇な男性を搾取しているのは女性ではなく、こうした強者の男性であるにもかかわらず、攻撃の矛先を女性たちに向けるのはおかしい。
自分のことを弱者だと主張する男性も、よくよくみれば男性であるだけである種の特権を獲得しています。卑近な例で言えば、公共スペースで痴漢に遭いにくい、夜の繁華街をひとりで歩けるといったことは、すでに特権なのです。こうした自分の特権性を疑わずに済むことは、ジェンダー問題に限らず、マジョリティに属する人たちに起こりがちなことです。
たとえば、バスや電車は自分の足で立って歩ける多数派が使いやすいように設計されている「健常者優先車両」と言えますが、多数派に属する健常者は優遇されていることが当たり前になっていて、その設計が車椅子で移動する人には使いにくいということに、なかなか気づきません。もし、公共交通機関がすべて車椅子優先で、空いたスペースがあったら健常者も乗っていいという制度設計だったらどう感じるのか。そんな風に視点を変えてみることは、とても大切です。
人は自分の特権性を指摘されると、えてして反発しがちですが、「そういえば、自分も男というだけで下駄を履かされてきたな」と気づける男性が増えれば、女性の立場への見方も変わるのではないでしょうか。
一方、先ほども言ったように、男性は男性で「男は●●すべきだ」「男の子なら泣くんじゃない」「男は家族を養って一人前」といった要求に苦しめられているという現実があることは事実です。女性からそういう言葉を投げかけられて傷つく男性も少なくないでしょう。そうした女性のふるまいは責められてしかるべきだと思います。しかし、男性がこのような苦しさを解消するには、女性全般に攻撃の矢を向けるのではなく、また「女もつらいが男もつらい」と言って現状追認に逃げ込むのでもなく、そもそも「男だから、女だから」と分けて考えるのをやめてみるしかありません。性役割や性差別をそのままにして、男性も女性もそれぞれ大変なんだ、ということで思考停止してしまっていても、物事は良くなりません。男性の苦しさを解消するには、男性か女性かによって人生の枠が決められてしまうような今の社会構造を変えていくことが必要なのです。
現実は「ジェンダー平等」に向かっている