――日本初の女性首相が誕生しましたが、このような大きな出来事がミソジニーに風穴を開けることにつながる可能性はありますか。
いえ、むしろミソジニーの強化につながる可能性が高いと考えています。最初に述べたように、「構造としての女性差別を可能にするための感情のあり方」がミソジニーであり、またミソジニーは社会全体に埋め込まれているため、男性だけではなく女性もミソジニーに取り込まれています。ですから、女性であればミソジニーを抱えていない、ということにはなりません。女性のミソジニーは定義上、「自己嫌悪」と言えますが、特に日本は世界の中でも家父長制が根強く残る社会なので、男性にとって都合の良い役割を自ら進んで演じる、「ミソジニーの罠」とも呼ぶべき状態に陥る女性も少なくないのです。
高市早苗氏もまた、そうした罠に陥っていると言えるかもしれません。選択的夫婦別姓制度に消極的なことを考えても、高市氏はジェンダーギャップ解消に極めて後ろ向きな人物ですし、保守派の筆頭としてミソジニーを発揮し、家父長制保持を目指すでしょう。高市氏に限らず、家父長制的価値観が強い政党の女性政治家たちは同様の行動を取りますから、単に「意思決定の場に女性が増えればいい」ということではありません。高市氏は「政治家でありながら、夫を介護する妻でもある」など、家父長制における女性役割を果たしていることを効果的にアピールしています。また、トランプ大統領来日時に見られたような過剰なボディータッチは、「男性目線から見た魅力的な女性」の演出と捉えることができるでしょう(諸外国の女性リーダーの振る舞いと比較した時に、その異様さは際立っていますが)。物議を醸した「ワークライフバランスをという言葉を捨てる」という発言も、自民党内の男性たちに気に入られようという意識がはたらいた結果だったのではないでしょうか。
――現在64歳の高市氏は男女雇用機会均等法第一世代です。この法律により女性の社会進出は進みましたが、ミソジニーが解消されるどころか、逆に強化されているように見えるのはなぜなのでしょうか。
確かに女性の社会進出は進みましたが、それが必ずしもジェンダー平等につながっているとは言えません。たとえば、高市氏が継承するとしている安倍政権では「女性活躍」が掲げられていました。この政策の意図は女性を労働力に組み込むことで、これは1980年代以降に世界を席巻し続けている新自由主義経済の要請に従った結果だと言えます。
1980年代になると、女性の社会進出が進んだことで、これまでフェミニズムが訴えてきた性差別はほぼ解消されたのだから、あとは女性の自己実現は新自由主義的な労働市場の中で「活躍」し、消費者としても主体的に「選択」していくことで実現されるのだ、というポストフェミニズムと呼ばれる考え方が生まれました。
その結果、男性と「同じ土俵」に立って華々しいキャリアを築いた一部の女性が脚光を浴び人気者になる=ポピュラー・フェミニズムという現象が出現しました。Facebook(現Meta)社初の女性役員で著書『LEAN IN 女性、仕事、リーダーへの意欲』(村井章子訳、日本経済新聞社、2013年)がベストセラーになったシェリル・サンドバーグは、その典型です。
サンドバーグのようなスーパーエリート女性は「have it all」、つまり仕事も家庭も、さらには美しい容姿などすべてを持っている能力の高い女性として称賛されますが、これは裏返せば、女性が輝けるかどうかは女性の頑張り次第であり、活躍できない女性は努力が足りないのだという、非常に自己責任的な世界と言えるでしょう。
実際のところ、女性が社会進出するにあたり、「家事やケア労働は女性の仕事」という従来の性別役割の解消は進みませんでした。多くの女性たちにとってはhave it allどころか、仕事でも家庭でも重い負担を何重にも背負わされることになったのです。サンドバーグのような「きらきらキャリア女性」は、実際の女性たちの現実から乖離した、いわばポストフェミニズムの幻にすぎません。
しかし、そのような幻がメディアを通じて可視化され、もてはやされる、すなわちポピュラー・フェミニズム化することで、新自由主義経済の下で不遇をかこつ男性たちの中に「今の社会のマジョリティは女性で、男性である自分達こそがマイノリティだ」という意識が作られていきました。これは従来のミソジニーと異なり、ポピュラー・フェミニズムへの反動として生まれた新たなミソジニーと言えるでしょう。この新たなミソジニーは「ポピュラー・ミソジニー」と呼ばれています。日本ではよく「女性専用車両は男性差別だ」という話が出ますが、これも「女性は優遇されている」という、実態とは異なる認識からくるものです。
――女性専用車両は痴漢被害から女性を守ることが目的なのに、なぜ「優遇されている」と受け取る男性が出てくるのでしょうか。
実際には女性差別は解消されていないにもかかわらず、「不公平感」が増大している背景には、「メリトクラシー(能力主義)」という問題も横たわっています。本来のメリトクラシーは、実力を評価し、オープンな競争を可能にするものでした。ですが、現実には階級や人種、ジェンダーなどが影響し、競争の条件が完全に公平になることはないということで出てきたのが、「積極的な差別の是正」という考え方と実践です。大学入試におけるマイノリティ優遇措置のように、マイノリティに機会を与えるアファーマティブ・アクション政策は、その代表的なものと言えるでしょう。
しかし新自由主義によって、ジェンダーだけではなく人種や階級による差別ももはやなくなったという幻想が浸透していきます。その結果、アファーマティブ・アクション政策は、マジョリティに「不公平感」を抱かせるものになっていきました。トランプ大統領はこれまでアメリカで進められてきたDEI(多様性・公平性・包括性)政策を次々に覆していますが、その際に彼は必ず「実力」という言葉を使います。それにより、「実力を伴わない女性や有色人種の優遇をやめる」というメッセージを送り、「自分達は公正な競争をさせてもらっていない」「本来得られるはずだった機会や待遇をマイノリティに奪われている」という不満を抱える層の共感を得ているわけです。
こうした「不当な剥奪感」を増幅させているのがネット社会です。ネットによって他者との比較が容易になったことで、「物言う女性」だけでなく、ただ人生を満喫しているような女性たちの投稿に対し「ずるい」という感情を抱き、「男としての自信」を取り戻すために女性を蔑視・攻撃するミソジニー的言動が過激化しています。
そうした男性たちの中には、熾烈なメリトクラシーの競争からこぼれ落ちることの苦しみを抱えている人もいるでしょう。しかし、その原因は新自由主義の社会にあるにも関わらず、女性をスケープゴートにし、「女性に自分の幸せを奪われている」というミソジニー的回路にはまりこんでしまうことは、擁護されるべきではありません。そうした「不当な剥奪感」から生み出された憎悪の矛先を外国人という別のマイノリティーに向ける政治的動きも激しくなってきていますが、そうした排他主義の一環としてミソジニーが増大しているのだとしたら、これは相当深刻な状況だと思います。
第二波フェミニズム
18世紀〜20世紀半ばにかけて、女性参政権運動等、公的領域での男女平等を求めた第一波フェミニズムに対し、それらが達成された後、性別役割など私的領域における女性差別の課題を提示、主に1960〜80年代に展開された女性権利運動。