また、少し抽象的な話になりますが、社会やコミュニティは人間によって構成され、共有されているという感覚が浸透しているということも、市民社会の歴史が長いイギリスと日本の大きな違いかもしれません。というのは、ミソジニーは女性を人として扱わないことを前提としているわけですから、逆に言えば、どのような性別であってもその人をちゃんと人とみなすならば、ミソジニーは起こらないはずなのです。たとえば、現実に対面したら口から出ないような暴言をネットに書き込む行為は、その言葉をぶつける先に、生身の人間がいることを想像しないからできることでしょう。「相手を人として見る」ことは、ネットが生活の一部となった現代において、忘れてはならないと思います。その文脈で重要となってくるのは包括的性教育で、自分も相手もひとりの人として尊重することを学び、そうした感覚を子どものうちから育てていくことを、日本でも行っていくべきだと思います。
身近な例としてもうひとつ、家庭内の「名もなき家事」の問題を挙げておきましょう。家の中で脱ぎ散らかした靴下を誰が洗濯カゴに入れているのか、流しに無造作に置かれた食器を洗うのは誰なのか、そうした細々した家事を担っている人を尊重する気持ちがあれば、靴下や食器をちゃんと片付けるようになるのではないでしょうか。これは単なる家事の分担ということではなく、家族であれ社会であれ、生身の人間の努力と労力で維持されていることを想像できるか、という問題だと思います。
そうした想像力を持ち、私たちが生きている社会は人間同士の関わり合いによって成り立っているという、あたりまえのことをちゃんと了解できるかどうか。非常に根本的なことですが、案外、そういうことがミソジニー解消の鍵になるのかもしれません。
第二波フェミニズム
18世紀〜20世紀半ばにかけて、女性参政権運動等、公的領域での男女平等を求めた第一波フェミニズムに対し、それらが達成された後、性別役割など私的領域における女性差別の課題を提示、主に1960〜80年代に展開された女性権利運動。