安倍晋三総理大臣はこの日記者会見を開いたが、おもな内容は予算案についてだった。過去最高額96兆7200億円の一般会計の内訳を「アベノミクスの果実を活かし、誰もが活躍できる一億総活躍の時代を切り開くための力強いスタートを切る」などと語るなか、安保法を質問した記者は5社(うち2社は幹事社)中の、わずか1社(毎日新聞社)だった。
集団的自衛権の行使が容認されることで、「ふたたび戦争ができる国になってしまうのか」という人々の不安や疑問は、15年9月に法案が成立した後もなくなったわけではない。しかし熱心に取り上げていたのはテレビ朝日の「報道ステーション」程度で、なかにはほとんど触れないニュース番組もあった。なぜ、知りたいことが報道されないのだろうか。
「ジャーナリズムは政治権力のウォッチ・ドッグ(番犬)であるべき存在だが、記者クラブメディアはまるで政権のポチのようにシッポを振ってきた。第2次安倍政権が成立して以降、その傾向はますます加速している」
そう語るのはニューヨーク・タイムズ前東京支局長の、マーティン・ファクラーさんだ。ブルームバーグ東京支局をはじめ、1996年から日本でジャーナリストとして政治や社会をみて彼は、『安倍政権にひれ伏す日本のメディア』(双葉社)という本を今年2月に出版した。記者クラブをはじめ、本来なら権力を監視するべきメディアが、積極的に官邸の意に沿う報道をおこなっている。これはまさに「日本の民主主義の危機」だと同書で警告する彼に今の日本がどう見えるのかを聞いた。
横のつながりのなさが、メディアの萎縮を生んだ
確かに安倍政権を批判すると「反日」というレッテルを張られ、「NEWS23」(TBS系)アンカーの岸井成格氏や朝日新聞特別報道部の依光隆明記者など、この数年の間に政権寄りではない者は降板させられたり、異動に追い込まれたりしている。そんな空気のなかで記者が萎縮してしまうのは、ある意味仕方がないのかもしれない。しかしこのままではそれこそ、戦争に向かう道をメディアが再び後押しすることにはならないか。そう問うとファクラーさんは、「今は戦前とは違い、政権を批判した記者が官憲に逮捕されたり、拷問を受けたりすることはない。本来なら堂々と戦うべきなのに、勝手に萎縮してしまっているのが実情だ」と答えた。そして萎縮する理由に、「記者同士の横のつながりがない」ことを挙げた。
「たとえば朝日新聞が2014年8月から9月にかけて、文筆家の吉田清治氏が『従軍慰安婦にするために、済州島で女性を強制的に連行した』と語った『吉田証言』や、福島第一原子力発電所の吉田昌郎所長(当時)に、政府事故調査委員会が聴収した『吉田調書』に関する報道を取り消した際、産経新聞や読売新聞、毎日新聞は猛烈に朝日新聞を攻撃しました。日本のメディアは会社組織という縦のつながりには従順ですが、記者共通の利益も利害もないので社外の記者との横のつながりがなく、自社の読者獲得のために常に戦っています。これを官邸は利用して、他紙の記者を朝日バッシングに誘導しました。しかし朝日が『吉田調書』を取り下げたあと、日本ABC協会の調査ではすべての全国紙が部数を減らしています。全国紙同士が醜い戦いを繰り広げたことで、読者は『新聞なんて信用できない』と購読をやめてしまいました。これはまさに、メディアの自殺行為だったのではないかと思います」
そしてファクラーさんは、人々のメディア離れを生み出した理由には、日本の「アクセス・ジャーナリズム」に頼ってしまう傾向があるのではないかと分析する。いわく、報道には権力を監視するために独自取材を積み重ねた「調査報道」と、政府や企業から直接情報を受け取る「アクセス・ジャーナリズム」の二つがある。たとえばアメリカでは、イラク戦争の直前はアクセス・ジャーナリズムの力が強く、ブッシュ政権への批判が足りなかった。しかし大量破壊兵器などないことが明るみになって以来、調査報道に力を入れる方向にシフトした。一方の日本では、現在も圧倒的にアクセス・ジャーナリズムの力が強いため、記者は読者ではなく官邸を向いた記事を発信している。「政府から情報がもらえることで、読者を獲得できる」と考えているからだと言う。とはいえ朝日新聞の読者離れは、決して「アクセス・ジャーナリズム」だけが原因ではないとも語る。
日本だけが、慰安婦の声を聞いていない
「朝日新聞自身がふたつの『吉田』を取り下げたこと、そして福島原発事故をていねいに取材し日本新聞協会賞を受賞するなど評価の高かった『プロメテウスの罠』などの調査報道を手掛けてきた特別報道部を解散させたことも、読者の反発を招いたのではないでしょうか。そしてなにより朝日新聞には、吉田証言の誤りを認めたことで『慰安婦問題はねつ造だ』という空気を作り上げた罪もあります。ネット右翼がここぞとばかりに『慰安婦は韓国による嘘だ』『朝日新聞のねつ造だ』などと言っていますが、それは朝日新聞が萎縮して、自分たちの記事をきちんと弁護しなかった責任も大きい。朝日の取り下げを受けて安倍首相は、国会で『朝日新聞の慰安婦問題に関する誤報により、多くの人が苦しみ、そして悲しみ、そしてまた怒りを覚えたわけであります』と発言しましたが、本来なら苦しみや悲しみ、怒りは慰安婦にされてしまった当事者のものであって、首相は彼女たちに哀悼の意を示す立場にあります。しかし日本のメディアはいずれも、そこを指摘しなかった。このことも『慰安婦問題はなかった』『朝日のせいで、日本が世界から攻撃された』という言説を生み出す一因になりました。でもそもそも日本以外の国で、朝日新聞を購読している人がどれだけいるでしょうか? 吉田清治氏の著書を読んだことがある人が、どれだけいるでしょうか? 慰安婦について語る際には、慰安婦にされた女性たちの証言がどこの国でも基本になっています。証言は一番説得力がある証拠なのに、なぜか日本では彼女たちは『嘘つき』にされてしまっています。そこにきて朝日新聞の誤報があったことで、『慰安婦なんていなかった』という空気が蔓延してしまいました。日本以外のどの国も、『慰安婦は朝日新聞によるねつ造だ』なんて思っていません。なのに朝日が萎縮して報道を取り下げたことで、マスコミは自分たちから慰安婦問題を、メディアタブーにしてしまったのです」
そして特別報道部を解体した今の朝日新聞の姿は、約100年前に起きた「白虹事件」を思い起こさせるという。
「白虹事件」とは1918年8月26日、大阪朝日新聞が当時の寺内正毅内閣を糾弾するために、「我大日本帝国は今や恐ろしい最後の裁判の日に近づいているのではなかろうか、『白虹日を貫きけり』と昔の人が呟いた不吉な兆が黙々として肉叉を動かしている人々の頭に稲妻のように閃く」(正式には旧仮名遣い)と書いたことがきっかけなのに、寺内内閣は「日は天子(天皇)を意味する。朝日新聞は天皇暗殺をそそのかしている」と難癖をつけ、記者を起訴した。これにより当時の社長は辞任、編集局長と社会部部長は退社に追い込まれた。以来朝日新聞は政権批判をやめ、大本営発表を垂れ流すメディアになってしまった。特別報道部を解体して、依光隆明氏など「権力を監視する」と明言した記者を異動させたという点は、まさに「現代の白虹事件」だとファクラーさんは見ている。
日本の国民には、希望が残されている
このままメディアが首相官邸に従順になり続けていると、かつてのような戦争は起きないまでも、権力者にとって都合のよい国になってしまうのではないか。そんな不安を口にすると、彼は意外にも「日本にはまだ、希望が残されています」と答えた。「今後、世の中が変わるとしたらエリートからではなく、それは草の根から起こると思います。日本は国民が総理大臣を選ぶわけではないので、ある程度の政治的な組織力がないと、与党に勝つ野党は生まれません。しかしそれでも、旧民主党が政権を執った時代があるのは事実ですよね。だから国民にはまだ、希望が残されていると思います。そのためには県知事など地方レベルで世の中を変える人が生まれるように、市民が力を合わせることが必要ではないでしょうか。たとえば橋下徹さんが出てきた時に、新しい風が吹いたのは事実ですよね? 彼は評価できない面もたくさんありますが……。でも同じようなことがあちこちで起これば、時代の流れは変わると思います。